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歌手小畑実と宮本顕治 渡部亮次郎
宮本顕治氏が死んだが、政治記者時代も含めて、1度も面会したことの無い政治家だった。

<日本共産党元名誉議長の宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、老衰のため、東京都内の病院で死去した。98歳。自宅は東京都多摩市連光寺1の31の28。7月18日15時46分配信 毎日新聞>

1958(昭和33)年には慶応出の野坂参三が日本共産党の議長となり、東大出の宮本顕治が書記長となったが、2人とも山口県出身と知り、山口県というところは総理(保守系)を何人も輩出するところだが、共産党首魁も出すのかと、妙に感心したことを覚えている。NHK通信員として秋田県大館市に駐在している頃だ。

それに先立って在学した大学では昭和30年ごろ「ロクゼンキョウ」という言葉が盛んに学内に飛び、左翼の学生たちが「女子学生たちが口紅をつけやがった」と騒ぎながら「ミヤケン」を連発していた。

このあたりを宮本の履歴で辿ると
<1950(昭和25)年コミンフォルムによる日本共産党への批判に対する態度をめぐって、党が所感派と国際派とに分裂、宮本は国際派のリーダー的存在となる。

数の上では所感派が圧倒的多数であったが、その所感派の武装闘争方針が国民の支持を失わせる端緒となり、衆議院での議席消滅につながる。1955[(昭和30)年3月、中央指導部員に就任。 7月、六全協第1回中央委員会総会で中央機関紙編集委員に任命>とあり、彼女らの口紅には共産党の消長がかかっていた事を知る。

歌手の小畑実(1923-1979)の経歴を読んでいると「小畑が姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ殺人被害者の小畑達夫その人である」と出てきて小畑と宮本顕治との意外なつながりにびっくりする。

<小畑は朝鮮半島の平壌出身だったが、当時は自ら朝鮮人の出自を明かす事は歌手にとって致命的だったため、秋田出身と公表していた。在日社会などでは出自は広く知られていたが、多くの日本人には死ぬまで秋田出身とされ、訃報にも韓国籍であった事実は一切、伏せられている。

14歳で来日し、苦学して昭和16年に日本高等音楽学院を卒業、江口夜詩の門下となる。下宿先の大家の姓である小畑を貰い、出身地は東海林太郎と同じ秋田という事にして、同年にデビューした。

小畑が姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ殺人被害者の小畑達夫その人である>。(誰か昭和を思わざる)筆者名不明。

<小畑実(おばたみのる、1923年4月30日-1979年4月24日)は朝鮮平壌出身の歌手である。本名康永戞淵ン・ヨン・チョル)

1937(昭和12)年、同胞のテノール歌手永田絃次郎に憧れて日本に渡り、東京で日本音楽学校に入学。

苦学しながら声楽を学ぶ。このころ秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったのが小畑姓と秋田出身を称した理由とされる。なおイクの息子小畑達夫は共産党リンチ事件で殺害されている。>

そういえば大館市周辺には小畑姓が多く、戦後長く秋田県知事を務めた小畑勇二郎もそうだったし、現在の大館市長もその親戚で小畑だ。

<宮本は1931年5月、日本共産党に入党。1933年12月26日、街頭連絡中に逮捕されるが、警察・予審の取調べには黙秘を貫いたとされる。

その間に、警察が逮捕されたほかの人間の取調べから突き止めたアジトを捜索し、床下より小畑達夫の死体を発見した。

検察は「1933年12月23日〜24日に東京 幡ヶ谷の隠れ家で、袴田里見、逸見重雄、秋笹正之輔、木島隆明の4人と共に、大泉兼蔵と小畑の両中央委員をスパイ容疑で査問。

大泉にスパイであることを自白させたが、小畑は認めなかったため、その際暴行を加え、『硫酸をかけるぞ』と脅したり、馬乗りになったり、針金で縛るなどの暴行を加え続け、ついに小畑を死亡させた」として、治安維持法違反、殺人、不法監禁、死体遺棄などの罪で起訴した。

(共産党は、小畑の死因は「特異体質による内因性の急性ショック死」であり、査問時に暴力をふるったことはなく、事件はでっち上げと主張している。

一方、同事件で共に有罪となった袴田里見は、共産党除名後の1978年に、週刊新潮誌上において小畑に暴行を加えて死亡させたと主張した。なお、小畑達夫はスパイではなかったことが後に判明している)。

1934年12月、市ヶ谷刑務所未決監に移監。裁判、1940年に始まり、1944年12月5日、東京地裁は殺意は否定したものの小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であるとして、傷害致死、死体遺棄、治安維持法違反などにより無期懲役の有罪とした。

1945年5月に大審院で上告棄却され無期懲役の判決確定(戦時特例により控訴審は無し)。6月、網走刑務所に収監されたが、すぐに終戦となる。

1974[昭和59]年6月26日、民社党の春日一幸委員長は『毎日新聞』の参議院選挙取材で、スパイ査問事件を取り上げ、宮本は小畑をリンチで殺したと主張。選挙の共産党批判に使った。

共産党は「小畑は特異体質により死亡したもの」と抗議した。1975年12月10日発売の『文藝春秋』1976年1月号で、立花隆もまた、小畑はリンチで殺されたと主張した。

1976年、春日はこれを国会で取り上げ、再び両党の争いとなった。1月30日、民社党の塚本三郎の質問に対し、稻葉修法相はリンチ殺人を認めた。

『文藝春秋』はさらに3月号で、鬼頭史郎判事補により違法コピーされた「刑執行停止上申書」と「診断書」を掲載した。浜田幸一は「日本をダメにした9人の政治家」の中で、
「死んだ小畑という人がスパイでなかったことは、その後の調査によっても確実になっている。 彼は最後まで、自分がスパイであることを認めなかった。

しかし、宮本氏らは、初めからスパイと決め付けており、相手の言い分を聞こうともせず、一方的に痛めつけた。 こんなのは、査問とは言わない。明らかなリンチである。

裁判記録や関係者の調書に拠れば、殴るける、さらには薪割り用の斧で頭を打ったりした。 それでもスパイであることを認めなかったので、今度は目隠し、猿ぐつわをし、 耳には飯粒を押し込んで、両手をうしろまわしにし、針金と縄で縛り、 足も同様にグルグル巻きにして身動きが出来ない状態にして、暴行を加えつづけた。

苦痛の余り、小畑氏は『いっそ、ひと思いに殺してくれ』と叫んだ。 しかし、宮本氏らは、頭から黒い布をかぶせて体を縛り上げ、火鉢の火を取ってきて足の甲に乗せたり、 股間を露出させて絞めたり殴ったり、下腹部に硫酸を垂らして責め立てた。

その結果、小畑氏は悶死した。宮本氏は仲間に命じて、死体を床下に埋めさせた。」と記している。一方、共産党側も、新日本出版社から『宮本顕治公判記録』(ISBN 4-406-00408-4)を出版し、裁判の実態を明らかにした。

自由民主党は民社党と共同でリンチ殺人事件を追及した。しかし、他の野党は、春日が治安維持法を自明の存在として宮本を非難したことから、春日がこの事件にかこつけて言論弾圧を推進していると警戒した。そのため、野党もマスコミも宮本に同情的であった。

1977年7月、第11回参議院議員通常選挙で全国区から初当選し、1989年まで務める。 1982年7月-8月、第16回大会1中総で中央委員会議長に選出。

1997年9月、第21回大会で欠席のまま引退し、名誉議長に退いた。2000年11月、第22回大会で名誉役員に選ばれる。

晩年は東京都多摩市聖蹟桜ヶ丘の私邸で隠遁生活を送り、日本共産党職員や家政婦が世話をしていた。 2007年7月18日、老衰のため死去した。98歳であった。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』執筆:2007・07・18
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