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細川たかしともう一人 渡部亮次郎
ジャガイモの名産地真狩村(まっかりむら)には歌手細川たかしの前に大作曲家八洲秀章(やしま ひであき)を輩出していることを忘れてはならない。

真狩村は北海道羊蹄山の麓に広がる純農村。札幌に南に位置する。ここの農家出身の演歌歌手細川たかしがNHKの歌番組に出るたびに「まっかりむら」出身と自己紹介したものだから「真狩村」は一躍有名になった。

富良野市は有名人に「文化村」を造成して倉本聡らに定住してもらったことから知名度が高まったと言えないことはない。その点、真狩村は平成6年、開基百年記念式典挙行、開基百年モニュメント建立などと共に細川たかし像を建立して功績に報いているのは立派だ。

実は真狩村の開拓農家からは、細川よりずっと前に八洲秀章(本名鈴木義光)という大作曲家を輩出していた。名曲「さくら貝の歌」「あざみの歌」など、生涯実に3,000曲を残した。

真狩村は明治28(1895)年、香川・福島県人5戸18名がマッカリベツ原野に移住。真狩村の開基となる。以来、2006年で111年が経つが、人口は2,234人(05.3.31現在)、主要産物はジャガイモ、食用ゆり根、アスパラガス、ミネラルウォーター。ジャガイモでは近年「キタアカリ」という柔らかい品種が開発され、私は毎年秋に送ってもらっている。

村のホームページhttp://www.makkari.info/ などによると、昭和61年…細川たかしを讃える碑建立と出てくるが、さすがに平成3年八洲秀章顕彰音楽碑除幕式と出ている。遅すぎたが、しっかりした村長が登場して、村民が目覚めた。

平成6年…開基百年記念式典挙行。開基百年モニュメント建立。細川たかし像建立。真狩村村村歌制定。真狩温泉完成。細川の像は人が前に立つとあの名調子で唄いだすそうだ。

ところで八洲である。録音:1990年5月14、15日 コロムビア第1スタジオCD:COCQ-83640 税込定価¥2,100(税抜価格¥2,000) という、日本の叙情歌を納めたCDに1枚に八洲の曲が3曲も入っている。殆どが戦中から戦後にかけて日本中の若い男女が胸をときめかせてラジオに耳を傾けた歌である。

1.白い花の咲く頃*/**(田村しげる)
2.青い山脈(服部良一)
3.山のけむり*/**(八洲秀章)
4.北上夜曲(安藤睦夫)
5.忘れな草をあなたに(江口浩司)

6.喜びも悲しみも幾歳月*(木下史司)
7.あこがれの郵便馬車(古関裕而)
8.さくら貝の歌**(八洲秀章)
9.湖畔の宿(服部良一)
10.鈴懸の径(灰田勝彦)

11.東京ラプソディー(古賀政男)
12.毬藻の歌*(八洲秀章)
13.ここに幸あり(飯田三郎)
14.長崎の鐘*(古関裕而)
15.マロニエの木陰(細川潤一)
16.港が見える丘(東辰三)

このほかに「あざみの歌」「チャペルの鐘」「高原の旅愁」があり、育てた歌手は伊藤久男、岡本敦郎(あつお)、島倉千代子、安藤まり子、藤圭子、原田直之、倍賞千恵子等々、個性派が多い。

私は敗戦直後に中学、高校に在学したから、NHKの「ラジオ歌謡」を唯一の娯楽として育った。秋田市の高校に入っても小遣いはゼロとあってみれば、映画も滅多に観られなかった。そこでラジオ。TVが家庭に普及するのは皇太子殿下(現天皇陛下)ご成婚の昭和34(1959)年ごろからである。

ところで「ラジオ歌謡」という番組は、NHKのラジオ第1放送で、終戦の翌年、昭和21(1946)年5月から昭和37(1962)年3月までの16年間で、実に845曲も放送された。自然の美しさや人間の純粋な心情を豊かに表現した歌詞の歌が多く、抒情性が豊かで家族みんなで楽しめる歌だった。

その中でも人気のあった作曲家は八洲で、ついで「白い花の咲く頃」とか「リラの花咲く頃」を夫人・寺尾智沙の詞で作曲する田村しげるだった。それに古関裕而が断然、群を抜いていた。

余談だが古関裕而は戦中、軍歌の名作を作りすぎて妬まれ、苦労した。福島県の商業学校を出ただけの独学派。「ラバウル海軍航空隊」「暁に祈る」「露営の歌」「若鷲の歌」(若い血潮の予科練の)「海の進軍」など。高木東六だって渋々にしろ「空の神兵」を作っているくせに古関に嫉妬して批判した。古関こそ天才だったのである。

八洲の家も香川県からの入植者だった。大正4(1915)年6月2日、北海道虻田郡真狩村字泉206番地で、農家の次男として生まれた。

兄と3人の姉を持つ末っ子だった。だからと、父は特別厳しく育てた。父親とは7歳で死別、兄が父親代わりだった。

小学3年のころから「楽才」が芽を出したが、本人は17歳までは農業を手伝いながら軍人を夢見る平凡な少年だった。ところが昭和7年10月、17歳の秋、馬車で馬鈴薯の種芋15俵買い入れに行った帰路、鳥の飛び立つ音に驚いた馬が急に後ずさり。

弾みで馬車諸共、崖下に転落。後頭部裂傷、全身打撲、大腿骨骨折という瀕死の重傷を負った。結局、これが原因で兵役には就けなかった。病床で読んだ野村あらえびす(胡堂=銭形平次捕物長の作者でもある)の「楽聖物語(ベートーヴェン伝記)がきっかけとなって作曲家になることを決意する。

結局、21歳の昭和11(1936)年6月15日、上京するが、仕事もないし、音楽学校へ入ることもならず僅かにYMCA合唱団で宗教音楽界の重鎮津川主一に師事したものの、それは唄うことであった。

作曲を独学で続け,上京1年後の昭和12年7月「漂泊(さすらい)の歌」(作詞菊地国美)がポリドール・レコードに採用決定。満鉄帰りの歌手東海林太郎(しょうじ太郎)の吹き込みで発売。作曲料15円也を手にした。現在に換算すれば5万円か。

棚の中の東海林太郎全集(ポリドール)を探してみたらあった。当時の名前は鈴木「義男」となっている。しかし軽快な中に哀愁を帯びたメロディーで、わが先輩東海林は、晩年に自身大好きだった「楡の花咲く時計台」の時と同じように朗々と唄っている。

都会での無理がたたって肺結核を患い一旦帰郷。再度上京した時から、体のことを考えて鎌倉の海岸に住むようになった。それが縁で詩人土屋花情(つちやかじょう)と出会う。昭和14(1939)年秋、八洲24歳、土屋26歳。

郷里の初恋の人を肺結核で失っていた八洲が「わが恋の如く 悲しやさくら貝 かたひらのみの さみしくありて」と詠んだ。湘南の浜辺に拾ったさくら貝。

それを花情が作詞で歌い上げ、八洲が思いを重ねて一気に作った。

「うるわしき 桜貝ひとつ 去りゆける 君に捧げんこの貝は 昨年(こぞ)の浜辺に われ一人 拾いし貝よ

ほのぼのと うす紅染むるは わが燃ゆる さみし血潮よ はろばろと かよふ香りは 君恋ふる 胸のさざなみ

ああなれど わが思ひは儚(はか)なく うつし世の渚に 果てぬ」

(JASRACはメルマガに関する著作権使用の許諾申請は態勢が整っていないことを理由に受付てくれません)

これが大作曲家山田耕作(本当は竹冠の作)の目にとまって自ら申し出て編曲し、夫人の辻輝子がレコーディングしたことから八洲の運命は大きく開け、戦後のラジオ歌謡時代に繋がって行く。

開拓農の苦労に馳せる思いを終生忘れず昭和60(1985)年12月30日、肝臓癌のため70歳の生涯を閉じた。

「西洋音楽の骨格を借りながら、日本の伝統的心情をうたった傑作」といて平成2年にNHKが全国65万通の投票により選んだ「日本のうた ふるさとのうた100曲」の中で「あざみの歌」と「さくら貝の歌」の2曲が選ばれた。

実は好きな八洲のことを調べてみたが資料らしいものを手にすることができなかった。思い余ってインターネットで検索したら、最近真狩村自身が「さくら貝の歌 八洲秀章」432ページを刊行し頒布に応じていることを知って入手し、これを書いた。
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