<< 糸で縄を買った 渡部亮次郎 | main | 首脳会談でF22導入の打診 古沢襄 >>
七夕に倒れた河野一郎 渡部亮次郎
「明日は平塚で七夕だからね、キミも必ず来なさい」が自民党の実力者河野一郎が私に掛けた最後の声であった。七夕の朝に自宅で倒れ、翌8日には死んでしまったからである。1965年のこと。

私がNHK盛岡(岩手県)放送局から東京本部の政経部(まもなく政治部)に発令されたのが1964年(昭和39年)の7月10日。文京公会堂で池田勇人(はやと)総理が自民党総裁に3選された日だった。特急「はつかり」で上京した。

東京は大学卒業以来6年ぶりだった。秋田県大館市で秋田放送局の通信員。翌年のNHK採用試験に合格して仙台放送局に転じて1年。チリ地震津波の直後に盛岡放送局に転勤して4年。将来がなさそうだからコカコーラに転職しようと画策していたら辞令が来たのだった。

折から日本では初の東京オリンピック。オリンピック担当大臣は河野一郎。キミ、担当したまえ、と部長に言われて追っかけていたが

「河野さん、あなたの目は義眼だそうですが本当ですか」と質問したことでえらく気にいられ、「河野派」も担当することになってしまった。

「キミはいい記者だ。ボクの目は義眼なんかじゃない。それなのに誰も質問もせずに義眼だと書く。キミが初めてだよ。いい質問をしてくれた」。

「若い頃、弟(謙三=後年参院議長)にトラホームを伝染された。そこで小田原の目医者で手術を受けた晩に夜遊びに行ってしまったので拗れた。それで右目は殆ど視力か無くなってしまった。それで眇目で見るから義眼と間違われるのだよ」と嬉しそうだった。

付き合ってみると、これほど優しく、気遣いの至る人はなかった。やることが阿漕だとか新聞記者の服装に五月蝿いとか、マスコミは敬遠していたが、実際はそんな事は全く無かった。

昭和38年(1963年)7月15日午前6時50分ごろ、右翼に放火されて焼かれた神奈川県平塚の自宅。直後に再建された庭でしばらく話を聞いた後、奥さんと一緒に晩御飯をご馳走になったこともある。

昭和39年9月には池田首相が喉頭癌のため引退を表明。後継者選考に河野、佐藤栄作、藤山愛一郎が俎上に上ったが、3ヶ月前、池田と争って実績を残した佐藤栄作が池田によって指名された。

そのまま佐藤内閣でも無任所大臣を務めていたが、1965年6月の改造で退任、その1ヵ月後には急逝してしまったのだ。まだ67歳だった。

腹部大動脈瘤破裂。佐藤に連なる旧吉田派の連中は梅毒が原因だと揶揄したが、それは否定された。酒は一滴も呑めなかったが、その分、女好きだったから、そんなことを言われたのだ。

<死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられる(「小説吉田学校」でそのような描写がある)が、息子河野洋平が語った所では、家族を安心させるために「大丈夫だ。死にはしない」という穏やかなものであったという。

真実では無いが、党人政治家の最期の言葉として人口に膾炙している。法名禅岳院殿大光政道一義大居士>。「大丈夫だ。死にはしない」を「死んでたまるか」に書き換えたのは私である。

神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)の豪農・河野家に生まれる。 父治平(じへい)は、豊川村長、神奈川県会議長を歴任した人物。

神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、1923年早稲田大学政治経済学部を卒業し、朝日新聞社に入社。早稲田大学時代は、弟・謙三とともに陸上長距離選手として鳴らし、草創期の箱根駅伝で活躍。総合優勝も経験している。

1931年、犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官となり、翌1932年、第18回衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬し、当選。当選後は、立憲政友会に所属した。

終戦後、1945年11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党。幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、1946年5月4日、鳩山に公職追放令が下り、吉田茂が後継総裁として大命降下をうけ、組閣に取り掛かる。

組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし、人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。

1954年、第1次鳩山内閣で農林大臣に就任し、第2次、第3次鳩山内閣でも農林大臣に留任した。翌1955年、自由民主党結党に参画し、党内で大派閥の河野派を形成。

1956年、日ソ漁業交渉、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合い、同年10月には日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印に扱ぎつけた。

鳩山引退後の自由民主党総裁公選では岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸信介内閣成立後は主流派となる。1957年の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第2次岸内閣下では党総務会長に就任。

しかし、1959年6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決で、河野派は三木派とともに欠席した。

岸退陣後の自由民主党総裁公選では、党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派(旧吉田派)の池田勇人に敗れる。

一時、河野新党(いわゆる第2保守党)の結成を目論むが、大野らに翻意を促され、断念。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、1961年7月の内閣改造で農林大臣として入閣。

1962年7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックの担当相として辣腕を振るった。池田が病のため、退陣するに当たっては後継総裁候補の1人に擬せられたが、後継総裁は佐藤栄作に落ち着いた。

昭和38年(1963年)7月15日午前6時50分ごろ、野村秋介は、憂国道志会会員・松野卓夫とともに、ガソリン18リットル入り2缶を携えて、神奈川県平塚市にあった河野一郎(当時は建設大臣)の私邸に侵入した。

野村秋介が河野一郎の秘書の紫藤研一らに対し拳銃を突きつけて脅迫をした。松野卓夫が、応接間の中にガソリンをまき、これに野村秋介が点火をした。結局、私邸の木造平屋建ての建物は全焼した。

野村秋介は、警察の取調べに対して、犯行の動機を「かねてから河野大臣が自民党内の派閥抗争を激化さしておる。その反省を求めるためにやった。行動については、自分が独りで計画して行なった」と供述した。

野村秋介は、同年8月8日に起訴され、懲役12年の実刑判決を受けた(河野邸焼き打ち事件)。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。

しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

河野は担当大臣としてオリンピックを成功に導いた反面、オリンピックを「スポーツのイベント」から政治の介入する国家的プロジェクトに変貌させたことへの批判もある。

市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こしたのも河野である。 酒がまったく飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」という。

1963年自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか!今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。 参考:ウィキペディア 2007・07・06
| - | 04:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







スポンサーサイト
| - | 04:27 | - | - | pookmark |







コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://kajikablog.jugem.jp/trackback/606690
トラックバック

CALENDAR

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< October 2019 >>

SEARCH

SELECTED ENTRIES

RECENT COMMENT

CATEGORIES

ARCHIVES

LINKS

PROFILE