<< 林彪事件の朝日新聞 渡部亮次郎 | main | 地球の裏側から来た津波 渡部亮次郎 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - | pookmark |







東北のオーロラ記録 古澤襄
東北の農民史をひもとくと,それは冷害と凶作・飢饉の苦難の歴史が浮かびあがってくる。餓死者十万人を数えた天明四年(一七八四)の奥州大飢饉をはじめ東北の農民は間断なく冷害の恐怖に曝されてきた。

その冷害、凶作とオーロラ現象が密接に関係している。

オーロラは「極光」と呼ばれ、文字通り北極圏と南極圏でしか見られないと思ってしまう。だが、かつては日本全国でオーロラを見ることができた。九州の長崎でもオーロラが見れたという記録が残っている。それだけ日本列島は寒冷期にあって、氷づけになっていたことになる。

明和七年(一七七〇)七月二十八日のことだが、北海道から長崎まで北の空でオーロラを眺めることが出来た。放射状形の極光で,京都では「山火事か」と騒ぎ出したり、名古屋では「日没後、北の空が赤くなり、犬山の出火と思えた」ことが伝えられている。これは「想山著聞奇集」に出ている。

日本最古のオーロラ記録は「日本書紀」にある。推古天皇の二十八年一月二日(六二一)の「天に赤気あり、長さ一丈余り,その形雉の尾に似たり」というのがそれである。これ以降五十二回のオーロラ記録が日本に残されている。

さらに注目されるのはこのオーロラ記録が寒冷期に集中して現れていることである。奈良・平安初期の温暖期には少なく、平安末期から鎌倉時代の寒冷期になると急激にオーロラ記録が多くなる。

それが室町末期の温暖期には減少し、江戸末期の寒冷期に増加するというサイクルを描いている。最近では昭和十六年三月一日の樺太観測を最後に、戦後は日本でオーロラは見られなくなった。つまり地球は温暖化の時代に入ったことになる。

日本の古文献ではこのオーロラ現象を赤気、黄気,紅気、白赤気と表現し、朝鮮の文献でも赤気が使われている。

地球の寒冷化とオーロラが密接な関係があると思われるが、さらに最近では太陽の黒点など太陽活動とも密接な関係があることも科学的に解明されている。

現代ではオーロラは未知の宇宙にロマンチックな夢を馳せる美しい現象だが、古代から近世に至るまでは、冷害・凶作を予兆させる不吉な天変地異の現れとして農民はおそれ、おののいた。

江戸時代のオーロラ記録は、享保十四年(一七二九)十二月二十八日の「加賀国の記録」,安政六年(一八五九)八月六日の「校定年代記」,明和七年(一七七〇)七月二十八日の「想山著聞奇集」の三つが現認されている。

冷害・凶作の被害が大きい東北地方でもオーロラ記録がある筈だが、私はまだ見ていない。山間僻地が多い東北では、オーロラ現象を遠くの山火事と見誤って,記録に残らなかったのではないか、と思わざるを得ない。

東北でのオーロラ記録探しを、諦めかけていたところ、何とお膝元の岩手県沢内村の古記録に、その下りが記載されていた。もちろん当時の日本人には、オーロラという認識はない。

沢内村の「沢内年代記」に「下巾本」というのがある。その「喜三太の詮議」の庚寅七年(一七七〇)に「七月二十八日夜、子の刻よりはじめて(始めて)空の色赤くなる。雲やけ(焼け)の如し」という記述がある。

これがオーロラ記録と断定できるのは次のような理由である。

江戸時代のオーロラは、享保十四年(一七二九)十二月二十八日、安政六年(一八五九)八月六日,明和七年(一七七〇)七月二十八日の三回現れている。なかでも明和のオーロラは最大級のものであった。

沢内年代記の「下巾本」はまさに明和七年七月二十八日の出来事を記録していた。私にとっては東北でのオーロラ記録の初見だったといえる。
| - | 05:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







スポンサーサイト
| - | 05:07 | - | - | pookmark |







コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://kajikablog.jugem.jp/trackback/564991
トラックバック

CALENDAR

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< May 2019 >>

SEARCH

SELECTED ENTRIES

RECENT COMMENT

CATEGORIES

ARCHIVES

LINKS

PROFILE