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ふるさと 安田紀夫
利根川沿いの町守谷という所に移り住んで8年になる。笹川繁蔵と飯岡助五郎が争った利根川河口から直線距離にして60キロメートル上流。人口4万8千人、1割が東京方面へ通うという新興の郊外タウンだ。霞ヶ関までバスと電車を乗り継いで1時間50分、どうかすると2時間を超える。

しかし、利根川を渡るとさすがに緑は濃い。夏には郭公の声が聞こえ、庭に糸とんぼが舞い込む。近くの湿原ではオオヨシキリがかしましい。本籍も移したのでいまや文字通り茨城県人である。うっかりすると「茨城県出身」といわれかねない。この際、はっきりさせておかねばなるまい。

生まれは境港市。父親が旧満鉄に転職したので一歳のとき大陸に渡った。昭和19年帰国するまで旧満州(四平、奉天)で暮した。18年に母親がわずらって一時帰国したので、奉天雪見在満国民学校から余子小への転校を一往復半。余子小から米子へ移って福生小、米子2中、東高と進んだ。転校のたびに言葉がおかしいとからかわれ、低学年時はあまりよい記憶がない。

39年に国鉄職員だった父が現役のままガンで死んだ。当時、警視庁詰めの事件記者だったが、「蓮見ワクチン」が良いと聞いて忙しい仕事の合間を縫って米子へ運んだ。夜行の「出雲」で朝到着すると母と妹にワクチンを渡し、駅で出雲そばをかき込むと昼前の特急で東京へとんぼ返りするという慌しい旅を2度。頻繁に帰ると父に病名が気づかれるので、隠密行動だった。しかし効果はみられず、医師の予言どおり発覚後3ヶ月の寿命だった。


取り掛かった事件を人任せにしたので担当の警部補が不審に思った。あとで理由がわかって、その人はすっかり私を「若いのに親孝行だ」と信頼してくれた。10年後、パリに赴任することが決まったとき、突然電話をしてきた。赤軍担当の警視になっていた。「役にたつかもしれないから」と資料を持たせてくれた。のち、このひとは都内の警察署長になり、夜回り取材にきた某社の記者が署長官舎に強引に入りこんだといって逮捕してしまい、新聞記事になる騒ぎを起こした。ともかく気骨のある一徹のひとで、70歳を超えた今もシベリヤ抑留者問題に取り組んでボランティア的活動をしている。年に一度は酒酌み交わしている。

母が死んだのは53年。パリにいた私のところへ入院先から突然電話がかかった。「まだ日本へは帰れぬか」とやぶから棒にいう。その次の日から意識をなくし、急いで帰国したが、ついに意識は戻らなかった。

父、母ともに早く亡くなったが故郷には弟妹が元気に暮している。父親の死んだ年を超える年齢になってからは兄弟5人、必ず年に一度は集まって酒をのみ、ゴルフをしたりしている。

共同通信には米子東の卒業生がいま私の他に3人いる。年代はまちまちだが、一番社歴の若いI君の志望動機がユニークで私にとっては愉快である。

55年、私はパリから帰って警視庁担当キャップをしていたが、頼まれて母校で講演をした。そのときマスメディアの仕事をチョッピリPRした。それを聞いていたのが高2だったI君で「面白そうだ」とその気になり、外語を出て別の通信社に入り4年前、転職してきたというのだ。I君は英語で記事を書く英文記者で、長野五輪では大活躍をした。

長い人生で熱中できる仕事があることは「幸せ」である。記者稼業も十分魅力的、エキサイティングでその「幸せ」にのめりこみ過ぎて家庭も故郷も随分とないがしろにしてしまった。この年齢になると、そういうことが悔やまれる。いささか遅いけれど。

10代で郷里を出てから40余年。トシとともに古里を懐かしく思う気持ちは強くなっていく。この気持ちは故郷を離れた年数、距離と逆比例するようである。(杜父魚文庫より)
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