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ふるさと喪失に思う 一ノ瀬綾
東京で暮らして二十七年になる。

二十八歳で上京したから、田舎と都会暮らしがほぼ半々になろうとしている。老後の心配が胸をよぎるようになった。

郷里の村で宅地用地の分譲を始めると聞いたので、村の友人にようすを訊いてみた。

「地価は坪五万円ぐらいだけど、ここで暮らすのも考えもんだよ。あんたが居た頃とちがって、村の生活意識は都会並だと思った方がいい。みんな勤めを持っているから、交流が少なくて、自分勝手になっちゃった。不便なだけ侘びしさが増してね・・・淋しいもんよ」

予想はしていたが、友人の言葉はショックだった。村で暮すには、車が無ければ一日も過ごせないとも言われた。私は運転が出来ないし車が嫌いだ。これでは町場以外に住めそうもない。と言って、コンクリート長屋で晩年を送るのも侘びしすぎる。

私が暮す江東区では、新都市計画とやらで、すぐ近くに高層ビル群が建つそうである。日常生活にどんな影響が出るのか見当もつかない。どちらを向いても溜息の出る話ばかり。人間らしく生きるにはどこへ行けばいいのか。私の心の中で”ふるさと” という言葉が、行き場を失くして悲鳴をあげている。

都会へ出て来た人間にとって、郷里は心のよりどころである。私は上京以来、文学に関わるという形で、ずっと「農村」にこだわり続けてきた。思考の根っこはいつもムラにあった。

私が郷里に帰るのは、年に一、二度それも所用のための慌ただしい訪れである。そのたびに肌身で感じる農村問題に一喜一憂し、時には失望のあまり、ふるさとは、遠きにありて想うもの・・・と、いう心境になったこともある。ここ一、二年はとくに状況がきびしくて、思い入れや同情なんか、現実の前ではおこがましとさえ感じられた。

私の郷里の村も過疎化と高齢化の中で、必死に生き残りの途を求めてきた。

食管改革、農協批判の中心である「コメ」問題は、その奥をさぐれば弱小農家の切り捨てと、農村の解体だといわれている。世界経済の大波の中で、必然的な変革を迫られているわけで、そのゆく末を想えば事の重大さに茫然となる。農村の解体とはどういうことか。
新聞の特集記事の中に、「野菜畑はビルの中」という話が載った。二十一世紀の想像図だが、すでに試験販売が始まっているという。市場経済の一部門となった農業は、ハイテク企業の思いのまま・・・。

農村が消えれば都市も変質する。世界経済の圧力で構造転換を迫られた東京は、巨大な国際情報都市となり、下町は消えてビルの林立するSFの世界・・・。

笑いごとではない。日常のこの息苦しさは、まさに事態が進行しつつある証ではないか。「ふるさと」が死語になる日の来ないことを願うのみである。(杜父魚文庫より)

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