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人民文庫の二世たち 古沢襄
戦前の昭和文学史で同人雑誌『人民文庫』の存在は時代を超えて光芒を放っている。作家高見順は名著『昭和文学盛衰史』のなかで、『人民文庫』が創刊されたのは、昭和十一年三月のことで、その創刊号の原稿が揃った十日ほどあとに二・二六事件が勃発したと回想している。

創刊号の執筆者は小説が荒木巍、新田潤、矢田津世子、平林彪吾、連載小説は武田麟太郎の『井原西鶴』、高見順の『故舊忘れ得べき』、エッセイは湯浅克衞、堀田昇一、松田解子、小坂たき子、細野孝二郎、田宮虎彦、伴野英夫、那珂孝平、石光葆、大伴弥之介、矢田津世子、古沢元が書いた。

東京・神田の小口ビルの四階で本庄睦男が編集長になり、すべての費用は武田麟太郎が背負った。折からファシズムの圧力が高まり、文芸統制の波がひたひたと打ち寄せていたあの時代に、左翼の観念主義や政治主義にはついてはいけないが、右傾化する時局やファシズムに協力したくない青年作家が『人民文庫』に立てこもって、現実正視のリアリズム文学の旗を掲げ、散文精神の合言葉のもとに抵抗の文学を志した。広津和郎はこの文学運動を高く評価した。二号以降、大谷藤子、井上友一郎、田村泰次郎、上野壮夫、円地文子、渋川驍、立野信之が執筆している。

人民文庫の作家たちは、自らの信念を披瀝するために、東京だけでなく地方での講演会にも積極的に出向いた。築地小劇場の講演会では補助席まで使って六百人が席を埋めつくしたが、その一方で、三陸山田港の講演会には、佐藤善一らの努力もあったが満員の盛況となり、人民文庫は改造を抜いてこの町で一番売れたという。ファシズムの嵐の前に逼塞しようとしていた当時のインテリゲンチィアがいかに人民文庫に期待を持ったかが、うかがい知れる。

それだけに人民文庫は当局から危険視された。昭和十一年十月二十五日夜、東京・新宿のレストランで徳田秋声研究会を開いていた人民文庫の作家たちは、サーベルを帯びた警官隊と特高警察に踏み込まれ、うむを言わさず一網打尽に手錠をかけて淀橋署に連行された。無届集会が留置の理由である。

連行されたのは、高見順、新田潤、田村泰次郎、立野信之、田宮虎彦、本庄睦男、那珂孝平、古沢元、上野壮夫、小坂たき子、湯浅克衞、堀田昇一、神山健男、伴野英夫、菊地克己、下村恭介の十六人。会合に遅れた井上友一郎は危うく難を逃れた。三陸山田港で教師をしていた佐藤善一も校長から町の警察から警告があったと知らされる。武田麟太郎のところにも憲兵隊から嫌がらせの電話がかかってきた。

人民文庫は昭和十三年一月号を最後に自主的な廃刊に追い込まれた。廃刊に最後まで反対したのは、平林彪吾、湯浅克衞、上野壮夫、堀田昇一、本庄睦男、那珂孝平、古沢元で『斬り死にしよう』という悲壮な覚悟だった。

『時局のことは、耐えるだけ耐えよう』と言い張っていた武田麟太郎は、廃刊の説得にきた高見順と新田潤に言いようもない暗い顔をして『廃刊しよう』と折れる。しかしこの傷痕は武田麟太郎と高見順が死ぬまで和解しない不和となって残った。あの暗い時代に生きた作家たちの心の傷痕を示す出来事だった。

あれから半世紀を超える歳月が去った。若き人民文庫の作家たちは終戦後、次々と文壇に登場し、優れた作品を残して、すでにこの世を去った。

毎年、師走の浅草でお酉さまの日に高見順の夫人秋子さんを囲んで昭和文壇を回顧する集まりがある。そこで武田麟太郎の次男頴介、平林彪吾の長男松元真、上野壮夫・小坂たき子夫婦作家の次女堀江朋子、古沢元・真喜夫婦作家の長男襄が顔を合わせ、この四人が『人民文庫の二世会』を作った。

浅草で年に数回、集まって、人民文庫を語り合う集いである。偶然だが頴介は毎日新聞社の出版部、真はテレビ朝日の報道局、襄は共同通信社の政治部といずれもジャーナリストになっていた。

早稲田大学を出た朋子は民族学振興会に勤めていた。浅草は人民文庫の作家たちが、青春を燃やしたゆかりの土地である。すでに二世たちは、親の年齢を超える年となったが、疾風怒涛の時代を生きた親の生きざまに対する思慕は、年とともに深まる一方で、会合はいつも熱を帯びて深更まで続く。人民文庫を語りつぐ使命感のようなものがあったと思う。

それが遺稿集という形になった。まず襄が古沢元・真喜夫婦作家の作品集『びしゃもんだて夜話』(一九八二年)を出版し、その三年後、真が平林彪吾の作品集『鷄飼ひのコムミュニスト』(一九八五年)を出版した。

そして朋子が上野壮夫の伝記小説『風の詩人』(一九九七年)を朝日書林から出版した。この間に田村俊子賞受賞作家の一ノ瀬綾が古沢真喜の伝記小説『幻の碧き湖』(一九九二年)、小坂多喜子が昭和文壇史を語るエッセイ集『わたしの神戸 わたしの青春』(一九八六年)を出版し、帝塚山学院大学教授の大谷晃一が『評伝 武田麟太郎』(一九八二年)の力作を出版されている。

『風の詩人』は十数年の綿密な資料収集、関係者の聞き取りの末、初稿は四百字詰め六百五十枚の大作となった。同人誌『文芸復興』にエッセイを幾度か寄稿していた堀江朋子だが、この長編は難事業だったに違いない。

それを出版に際して、四百枚に収斂し、娘なるがゆえに避けられない身内の情念を出来るだけ押さえた見事な伝記小説にまとめた。この作業に当たって平林彪吾の遺児・松元真が献身的な協力をした。

平林彪吾は昭和十年、『鷄飼ひのコムミュニスト』が『文芸』の懸賞作品に当選して文壇に彗星の如く登場したが、昭和十四年に三十七歳の若さでこの世を去った。人民文庫の同志だった上野壮夫は平林彪吾の葬儀を取り仕切り、翌年、改造社から短編集『月のある庭』が出版されたときに、上野壮夫が編者としてあとがきを書いた。

『風の詩人』に松元真が『刊行に寄せて』の一文を書いたが、これも親から子に受け継がれた深い因縁めいたものを感じる。
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