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直木賞が彩なす人間模様(2) 古沢襄
川口則弘氏のことは、そのまま忘れて月日が経った。このやりとりがあったのは、ことしの三月。私は東北で初めて直木賞を受賞した作家・大池唯雄氏が、仙台の旧制第二高等学校(現在の東北大学)の同級生・文学仲間で、無二の親友だったことも話している。

森荘已池氏といい大池唯雄氏といい古沢元の周辺には直木賞作家がいるのは、何かの縁(えにし)かもしれない。しかも古沢元は第12回(昭和15年下半期)の直木賞選考委員会で、その作品「紀文抄」が候補作品となりながら「直木賞ならいらない」と舌禍事件を起こして受賞を逃している。

私の母・真喜は「お前のオヤジは世渡りがまるでダメ」と言ったが、その母も世渡りが下手な方であった。父と母の影響を受けているから、私は最初から世渡りを放擲している。

それは、さておき文学碑忌で高橋町長が「古沢元とその文学」の講話をして頂けるというので、そのお役に立つかと思って、川口氏にホームページを久しぶりに開いて見た。驚いたことに川口氏は、三月二十一日に「古沢元氏と、その作品”紀文抄”」を書いて発表していた。軽妙な文章ながら、私が知らない直木賞の選考事情が詳しく記されてある。


           古沢元氏と、その作品「紀文抄」

インターネットで「古澤元」を検索していたら、古澤襄という方が主宰する「杜父魚文庫」やそのブログにたどりついた。古澤襄さんは、まさしく古澤元のご子息である。共同通信社で記者として活躍、常務理事まで経験されたのち、今では数々のご著書をもち、インターネット上でも数多くの文章を発表されている。

その中には父・古澤元に触れたものがいくつもあり、ワタクシは氏の文章ではじめて、古澤元が岩手県沢内村の出身であり、第8回直木賞受賞の大池唯雄と、旧制高校時代以来の友人であったことなどを知った。

さらに見ていくと、岩手県沢内村が町村合併で西和賀町になることを機に、郷土の作家である古澤元の作品を集めた『古澤元作品集』が、平成18年に刊行されていたことがわかった。ここに、これまで容易に読むことのできなかった「紀文抄」も収められているという。うおう、読んでみたいぞ。たまらずワタクシは、古澤襄さん宛てにメールを出してしまった。

すぐに襄さんから返信があった。大変丁寧な内容で、古澤元に関してさまざまな事柄をご教示いただいたうえに、さらには顔も知らぬ、どこの馬の骨とも知らぬ偏屈なシロウト直木賞研究家(ワタクシのことです)のために、『古澤元作品集』や、古澤元に関する本をお送りいただいた。

感激感涙のいたりだった。いつしか「紀文抄」を読むことはワタクシの長年の夢となっていたが、ついにそれが果たせた晩は、至福の思いで眠りにつくことができた。古澤襄さん、ほんとうにありがとうございます。

直木賞のことを知りたい、と思う人よりは、おそらくずっとずっと数が多いと思われるプロレタリア文学研究者や戦時下における同人誌の研究者などにとっても、きっと貴重で参考になる文献だと想像し、とりあえず目次の内容だけでもと思って左に挙げておいた。

            直木賞が試みたいくつかの改革。

「紀文抄」は、江戸の材木商人・紀伊国屋文左衛門の、豪遊生活を送っていた日常を、文左衛門の心理を追うことで描いた作品だ。むろんワタクシなぞに評論する力はないので、評論はしない。読んでわかるのは、同じ時代小説(古澤のは歴史小説と言ったほうが近いかも)でも、直木賞を争った村上元三などの作品に比べて明らかに異質ということだ。登場人物の心理を丹念に深くまでえぐっていく書き方が異質だし、とりわけ文体が異質だ。

おそらく芥川賞あたりの舞台で取り上げられたほうが、まだしもしっくり来るが、いやいや待てよ、この作品が直木賞の候補作となったところに、ワタクシは当時の直木賞の「大衆文学の地位を向上させる」闘いを見てみたい。

そもそも創設以来、芥川賞・直木賞、と並び称されてはいるが、直木賞って芥川賞よりも格が下だよねという雰囲気のあったことは、どうしても免れ得ない。

はじまった頃の両賞を事務方として支えた永井龍男の『回想の芥川・直木賞』にも、はっきりとこう書いてある。

初期には、芥川賞委員で直木賞委員を兼ねた人が数名あることは、前に記録した通りだが、その逆というのはない。当時の文壇の主流が純文学に占められていた証左で、銓衡会席上にもおのずとその雰囲気がただよい、直木賞単独の委員の発言には、一目置いたところがあったのは否めない。また両賞委員を兼ねた人々の中に、直木賞委員を軽く見る態度のほの見えた事実もしばしば私は経験した。
 

創設期の両賞兼任委員は、菊池寛、佐佐木茂索、久米正雄、小島政二郎の4名。永井は続く段落で、その間、文藝春秋社側として出席した佐佐木茂索が、両賞兼任委員として公平な立場を持しているのは、今日その選評によっても知られる。 と書いているから、「直木賞委員を軽く見る態度」をほの見せたのが誰だったのかは、けっこう絞られてくる。

軽く見る態度とはまったく違うが、小島政二郎は第9回の選評で、直木賞委員に対して不満をぶちまけている。

内輪から火事を出すようで甚だ宜しくないが、直木賞の委員諸君、どうかもう少し出席して下さい。私だって決して勉強家の方ではないが、それでも出席だけは必ずしている。出席して、芥川賞の委員のように甲論乙駁、議論を上下しようではないか。(中略)

「どうも熱心が足らん」
そう云われる度に、私は切ないのだ。直木賞の銓衡に熱心とか不熱心とか云うことでなしに、文学に対する熱心不熱心を云われているような気がして、何か鼎の軽重を問われている見たいな思いがするのだ。

ちなみに当時の直木賞「単独委員」は、吉川英治、大佛次郎、三上於菟吉、白井喬二の4名である。

それで業を煮やした主催者当局のとった手段が実に思い切っていて、第11回からは芥川賞の全委員に直木賞委員も兼ねさせる(その逆でないことに注意されたい)という奇策に打って出る。

さらにいえば、この頃試みられた新しい方向性がもう一つある、とワタクシは推察する。それは『オール讀物』『大衆文藝』『サンデー毎日』『新青年』といった商業の娯楽誌ばかりでなく、同人誌からも候補となり得る作品を探そうとする姿勢だった。おそらく、その先鞭は第10回のときに『九州文学』から探し当ててきた岩下俊作「富島松五郎伝」である。この方向性が第12回の候補リストに「紀文抄」を加えるもとになったのではないだろうか。

「読んで面白いだけではダメで、そこに“文学”がないと直木賞には値しない」などと不毛とも思えるハナシが、今だって直木賞選考の場では根強く語られたりするけれども、人間は、どんなことにも意味や理由を見出さないと堪えられない厄介な生き物らしい。

戦前の直木賞もやはりこの厄介さにしばられていて、その一端が第10回以降のいくつかの改革に結びついていく。要は「大衆文学なんてなんら評価に値しないくだらぬものだ」という偏見を打破すべく、純文学の畑から少しでもエキスを拝借して、大衆文学もいやあ立派な文学になりましたねと言ってもらえるようなものにしていきたい、という動きだ。

ただし、残念ながらこの改革はあまり長く続かなかった。芥川賞委員の兼任は第13回を最後に早々に打ち切られているようだし、このあと戦前の候補作リストをたどっていってみても、結局そのほとんどが前記の商業誌(プラス『講談倶楽部』)に掲載されたものに終始している。

そんなに単純に純文学を直木賞の場に取り込むことはできないんだなと悟ったのかもしれない。もちろん書きたいものが自由に書けなくなっていき、評価したいものを自由に評価できなくなった時代のせいもあるだろう。戦時下の直木賞の変貌については、このページで語るテーマではないので、また別の機会に考えてみたいと思う。(続く)
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