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戦後日本とGHQ 古沢襄
東北は今、新緑の一年で一番いい季節である。毎年五月に西和賀町沢内の菩提寺で古沢元・真喜夫婦作家の文学碑忌が開かれてきた。この文学碑は郷土の人たちの浄財で十年前の一九九七年に建てられた。役場の臨時雇員の小母さんまで一〇〇〇円の寄付をして頂き、二百数十人から集められた寄付金は六百万円。

文学碑の隣には郷土の先人である国連外交官・平沢和重氏の顕彰碑も建てられている。碑文は「胸は祖国におき 眼は世界に注ぐ」。寺に遺された平沢氏の直筆が碑にそのまま刻みこまれている。

平沢家は西和賀町沢内に住む旧家であった。父の代になって、この村を離れ、平沢氏は四国の香川・丸亀で明治四十二年に生まれている。昭和十年に東京帝国大学を卒業して外務省に入った。

日米戦争の末期には、一族が住む隣村の西和賀町湯田に朝子夫人とともに疎開してきた。戦後、縁があってNHKの解説委員になっている。碑文は廃墟となった日本の再生を願う心意気が滲み出ている。昭和五十二年に六十七歳で没している。人のいのちはあまりにも短い。

古沢家と平沢家は遠縁に当たる。古沢家・五代善治は、西和賀町湯田の左草(さそう)の旧家・佐々木家から妻を迎えた。「明治戸籍」によるとその人の名は、陸中国湯田村佐々木市右衛門伯母・クマ。文化十四年(1817)に生まれ、明治十一年に六十二歳で没した。菩提寺の玉泉寺にある過去帳では「教海清雲大姉」の戒名がついている。

秋田県と岩手県を結ぶ旧街道の左草の地名は、小高い丘に位置するので、生えている草が風に吹かれて左へ左へ靡くことから付いたという。佐々木家には、「退休遺書」というおよそ二百年昔の古文書の写本が遺されている。和綴じの写本は、明治十七年(1884)のもの。

これを拝見するために佐々木家を訪れたことがあった。当主の佐々木保夫氏とお互いの先祖たちの縁(えにし)の不思議さを語り合いながら、話題が平沢和重氏のことになった。疎開した朝子夫人は幼い娘さんを背負って、よく自転車で佐々木家に買い出しに来たという。

平沢和重氏の伯母、つまりは父の姉が佐々木家に嫁していた。佐々木キサさんという。朝子夫人の顔をみるとキサさんは、台所の揚げ板の下から蔵ってあった卵や野菜、お米を甥の嫁さんである朝子さんに渡してくれた。戦後、間もない頃のことである。

二つの碑が並んで建立されているのも、何かの縁なのであろう。

「退休遺書」だが、退休は秋田県大森町筏から天明六年(1786)ごろ湯田村左草に移り住み、玉泉寺の過去帳によると文政六年(1823)に没している。退休は当時としては卓越した漢学の素養がある。論語や詩経の引用文が随所に出てきて、辞世の句は「世の中に 路ごとなけれ 思いいる 山の奥にも 鹿のなくらん」。優れた教養人であった。

この十一日から東北旅行に出る。十二日には菩提寺で行われる文学碑忌に出席して郷土の人たちと旧交を温めてくる。前夜には「戦後日本とGHQ」と題する講演もするつもりだ。敗戦から七年近いGHQ支配の時代は戦後史でも空白の時代になっている。

日本政治もGHQ内部の権力抗争に振り回された時代なのだが、占領下だったので正確な資料が乏しい。だが、最近になって、いくつかの史実が明らかにされている。私には占領下の遺構が今も続いている気がしてならない。

七月には海を渡って佐渡を一回りする計画を立てている。北一輝の母系の調査をするつもりでいる。頭の片隅には信州旅行の計画もあるのだが、私なりの美しき日本を追う旅には終わりはない。
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