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”怒りと鎮め”の名門・諏訪一族 古沢襄
NHKの大河ドラマ「風林火山」は武田晴信の信濃攻めに入った。天文十三年二月に二万の大軍を率いて御射山(みさやま)に陣を敷いている。

井上靖氏の「風林火山」が原本だから、作者不詳の「甲陽軍鑑」に拠るところが多い。しかし、信濃・諏訪氏攻めは歴史読本に連載された新田次郎氏の「武田信玄」の方が、より具体的で面白い。新田氏は諏訪に縁がある作家である。

日本の苗字に詳しい丹羽基二氏は、諏訪姓は全国で一〇〇万もある大姓だと言っている。この氏族は三流があって‐綣劼某晴氾洵下社の金刺党I隹反柬党に分かれるという。神家党は大国主命(おおくにぬしのみこと)の子・建御名方神(たけみなかたのかみ)の末裔。この神は父の国譲りに反対して信濃国に幽閉された”怒りと復讐の神”。

諏訪の文字は呪字だと丹羽氏は言う。スワの言葉は、沢から流下るスワスワという水の音から発していて諏訪湖は”沢湖”の意味でもある。諏訪一族から「○沢」や「○○沢」の同族が多く生じている。さしずめ古沢姓も、その同族に括られる。

下社の金刺党は信濃国造(くにのみやつこ)系で八坂刀売神(やさかとめのかみ)を祖としていて建御名方神の姫神として仕え、”鎮め”の一族として隆盛となった。この二流が平安時代の末期にひとつになった武士団として信濃国で一大勢力を形成して武家諏訪党(信濃源氏)として歴史に名を残している。

”怒りと鎮め”のふたつの神を持つ諏訪氏は、千数百年の歴史を持つ名族なのだが、全国に諏訪神社の末社が約五〇〇〇。私の一年先輩で諏訪賢氏という共同政治部記者がいたが四国・高松市の出身であった。毎日政治部記者にも諏訪氏がいた。

有名な諏訪湖の”おみ渡り”は、結氷期に湖の氷がバリバリと音を立てて盛り上がるものだが、軍神の諏訪神がミサカリ(御盛り)がついて、姫神のもとに走る渡りと信じられている。

姓氏家系大辞典(太田亮氏選)の第二巻に「信濃国に諏訪郡あり。和名抄に須波と註す。養老五年六月紀に信濃国を割き、始めて諏訪国を置く。天平三年三月紀に至り(諏訪国を)廃す」とある。

古事記には「科野国(信濃か?)の洲羽海(諏訪湖か?)に到り給う」との記載がみえるが、出雲国の大国主命の御子・建御名方神が信濃国に移った由来が記されてある。同じ記述が天神本紀にもある。

武田晴信(信玄)によって諏訪一族の頭領・諏訪頼重が誅殺された。頼重の妻は武田晴信の実妹、禰々御料人と称され、美貌で知られたが、兄の所業を恨んで食を断って翌年に世を去っている。(新田次郎説。井上靖は頼重誅殺の二年前に十六歳で死亡説をとる)

頼重には十四歳になった娘がいた(甲陽軍鑑)。武田晴信の愛妾となり、武田勝頼の母となった諏訪御料人。新田次郎は湖衣姫と名付け、井上靖は由布姫としている。気高き絶世の美女として新田次郎も井上靖も描いている。

甲斐武田と信濃諏訪の申し子だった武田勝頼は諏訪四郎勝頼の別名を持っている。天正十年に織田・徳川軍に攻められ、天目山の戦いで自害して果てた。享年三十七歳。

勝頼を猪突猛進の愚将とする説は甲陽軍鑑に依拠するが、近年、対徳川氏・対北条氏との戦いなどで見せる戦術の機敏さや武勇等の華々しい戦果は、猛者の多い武田家の古参の武将達と比べても遜色ないとする説が有力となっている。むしろ甲斐武田の滅亡は、武田一族の内部抗争による離反だったという史料が多くでている。
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