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極秘水脈「直角ライン」 渡部亮次郎
日本の政治のことを考えるのはそろそろ止めよう、と考えている。つまらないからだ。スケールがどんどん小さくなってゆく政治家たち。とりもなおさず肝(きも)を鍛える戦争を体験していないからだ。

幸か不幸かNHK政治記者だった41歳のとき、請われて外務大臣の秘書官となり、政治家の喜怒哀楽、毀誉褒貶を約四年垣間見た。それはのちに社団法人日米分化振興会から出版してもらった『園田外務・厚生大臣日程表』に付属メモとしてかなり書いてある。

但し、この本は販売されなかったので、世間の目に触れなかったと言ってもいいだろう。又、当時の新潮社出版部長(のちに専務)新田敞(にった ひろし)氏から薦められて書き続けた「秘書官日記」は我が引出しの底に眠ったままである。

これを日本政界裏面史として遺すべき人物も居ないし、これらはこのまま歴史の裏で塵、芥として棄てられること確実であろう。多少残念でもあるから、わがメイルマガジン「頂門の一針」を執筆しているうちに幾つかを遺して行く。

私がその秘書官を勤めた園田直(そのだ すなお)と元総理大臣田中角栄。仲は徹底的に悪いと世間では思っていたし、既にこの世に無い二人。このことについては遺言も無いはずである。

ところが実際は朝も暗い時に何度もサシの会談を重ね、大平内閣はおろか鈴木善幸政権と言う誰も想像だにしなかった政権をも実現したのもこの二人が組んでの仕事なのである。

大正7(1918)年5月4日、新潟県生まれの角栄。直は大正2(1913)年12月11日、熊本県天草島生まれ。どちらも大学は出ていない。しかし角は「俺は秘書が東大出だ」と言ったし、直は密かに資格を取ろうとした。

共に軍歴を経たのち、昭和22(1947)年4月25日の第23回総選挙(戦後2度目)で代議士当選(共に民主党公認)。曲折を経て昭和44(1969)年、佐藤栄作政権の下、田中幹事長、園田国会対策委員長というコンビを組む。

コンビを組むと言っても田中が任命したものではなく事実上は佐藤首相の指示。既に佐藤後の政権について後継を目指している田中に対して、福田赳夫支持を明確にしている園田を国対委員長にするとは、佐藤が田中を支持していないことを匂わせるものだった。

二人はことさらに対立することも無かったが、マスコミは「直角ライン」と呼んで対立を際立たせようとした。

そんなこともあって直が参謀となった福田派と角栄派の総理争いは「角福戦争」と呼ばれるほど激しく競り合うものとなった。しかし資金力に優る角栄があっけなく勝利。敗れた福田が角への恨みを募らせる。怨みはこのあと10年ぐらいの政局に噴出することになる。

角内閣が金権批判と女性スキャンダルで倒れたあと、晴天の霹靂三木武夫内閣。それを倒しにかかったあたりから、直角の意思疎通が鈴木善幸を仲介にして図られる。

政権を「一年でも半年でもいい」と言う福田の懇望黙(こんもうもだし)難く角栄の暗黙の了解の下、「二年」の密約文書を交わして、福田老人内閣が成立。

このとき福田は師匠岸信介の指示があって、岸の女婿安倍晋太郎を官房長官にする心算だったが、園田は私の助言により官房長官以外の閣僚就任は拒否すると固執、宿願を果たした。水俣病公害認定の厚生大臣以来、10年ぶりの入閣だった。

しかし一年後、福田は園田を更迭、外務大臣に横滑りさせた後へ安倍を据えて岸の要望に応えた。園田は大平幹事長と会談を重ね、福田の任期延長(一年)に目途をつけつつあったが、官房長官更迭で延長工作を放擲。田中内閣以来の懸案となっていた日中平和友好条約の締結交渉に専念する。

外相就任から約八ヶ月後の昭和53(1978)年7月12日午前6時半、目白台の田中角栄邸を訪問。案の定、マスコミはまだどこも来ていなかった。「歴史はマスコミのいないところで作られる」。

「角福戦争」後、初めての会談。園田が愛野興一郎外務政務次官(田中派)を通じて申し入れた。もちろん福田首相には極秘である。会談は二人だけでたっぷり二時間行われた。田中は以下のことを述べた。会談後の車中で直から聞いた。

(1)首相退陣を決意した直接のきっかけは健康状態の悪化にあった。モノが二重に見えるほどになっていた。

(2)退陣に際し、後継に椎名悦三郎を指名しようと決意していた。ところが佐藤元首相が「指名はするな」と言って来た。そこで後継者選びを椎名に委ねることにした。

(3)感情的に福田には政権を渡したくはなかった。彼はオレの政権が苦しくなった時に、蔵相を辞めた。首吊りの足を引っ張ったからである。大平のことが気になった。

(4)福田のあと大平までは読める。中曽根はモノになるまい。大平のあとは一万石大名の背比べみたいになって混沌とするだろう。

それ以上は園田は喋らなかった。しかし「福田再選は認めず」「大平を支持」が鮮明になった。また日中平和友好条約についても意見が一致したから、私にはあえて明らかにしなかったもの、と解釈した。

この頃、園田は条約は自分が訪中して締結すると各方面で言明していたが、福田首相は北京に居る佐藤正二大使に調印させようと工作していた(元東京新聞外務省担当記者永野信利著『天皇と小平の握手―実録・日中交渉秘史』行政問題研究所刊)。

福田は日中条約の締結が自分の引退の花道にされることを懸念したのだ。それが証拠に「二年」の任期が来たにも拘らず「世界が福田を呼んでいる」と高言して「密約」を無視、再選に立候補する。

角栄の梃入れにより福田は敢え無く落選。「天の声にもたまには変な声がある」と負け惜しみを言ったのを私は傍で聞いた。

角の予言どおり大平内閣が成立し、園田は外相に再任された。大平急死のあと虎ノ門病院で会った直角はそのまま田中邸でサシの会談を行い、後任の総理は大平派で田中と特にいい鈴木善幸に決めた。外人記者団は「ゼンコー フウ」と言った。誰も予想しない政権だった。

直角会談は大抵、五時とか六時とか早朝に行われた。マスコミは一度も気付かなかった。臍曲がりの記者がいて五時から毎朝、田中邸を一年ぐらい見張っていたら、歴史が変わっていたとつくづく思う。何故、居なかったのだろう。マスコミが群れているうちは、政治家は怖がらない。記者と秘書官の両方を体験した私の感想である。2007・03・28
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