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日本海が表だった時代 渡部亮次郎・誠一郎
秋田はやはり美人が多い。2007年3月24日の千秋会。互いに71歳の高校時代を東京で懐かしむ会。花見が目的だが花は1分咲き。それよりも70を過ぎてなお美人の中に北前船を連想させる姓の方が居て、少し詳しく調べる気になった。北前船(きたまえぶね)はうっすらとしか知らない。

北前船の水夫が女に腰を抜かしたのは越前でも能登でも越中でも越後でもなく秋田だった。各地の地名が「姓」で残っている。播磨谷=兵庫県、越前谷=福井県、三国屋(谷)=同、若狭屋=同、小浜屋、=同、敦賀屋=同、能登谷=石川県、加賀屋(谷)=同、越中屋=富山、越後屋(谷=新潟県)。

秋田まで来るとどこかが緩んだのかも知れない。酒田(山形県)には留まっていない。逆に秋田男が加賀女に腰を抜かした記録はない。?

ところで北前船は江戸中期から明治時代にかけて,北海道と大坂、のちには江戸までを結んで西回り海路を往来した買積船。その船型は通称千石船で,弁財船,どんぐり船とも呼ばれた。

当初は200石(30トン)積みから500石(75トン)積みまであったが,明治時代になると2000石(300トン)積みクラスのものも現れた。

積荷は上り荷として北海道産の胴ニシン・羽ニシン・身欠きニシン・サケ・昆布などの海産物,下り荷は米・塩・木綿・古着・酒などであった。船主が荷主を兼ねた買積みであった。柚木 学(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

例年70,000石(10、500トン)以上の米を大坂で換金していた加賀藩が寛永16年(1639年)に、この航路で100石(15トン)の米を大坂へ送る事に成功。一方幕府も寛文12年(1672年)出羽国の米を河村瑞賢に大坂へ回漕させたのが、この航路の起りである。

初めは近江商人(滋賀県)が加賀、能登の水夫たちを雇って、北海道を日本海、瀬戸内海を挟んで大坂との物資交易で大儲けした。1航海1千両と言われた。

そこで次第に雇われ者たちが独立して商売をするようになり、単なる「賃積み船」から、寄港地で新たな物資を買い入れ、それを次の寄港地で高く売る「買い積み船」の船頭として、商売感覚を身につけていく。

江戸時代の和船では、通常は年に1航海で、2航海できる事は稀であった。しかし明治時代にスクーナ (w:en:Schooner) などの西洋式帆船が登場すると、年に3航海から4航海が可能となった。

秋田美人(あきたびじん)とは、秋田県出身の美女を指す。京美人、博多美人と並び、日本3大美人といわれる。

一般に秋田県には美人が多いとされる。絶世の美女とたたえられる小野小町は湯沢市小野出生と伝えられており、秋田県ゆかりのものの多くに「こまち」の名が付けられている(史料上は出生地は不明である)。

ある調査によると、皮膚色調の白色度が、日本人平均が約22%なのに対し、秋田県では約30%であり、西欧白色人種の約40%に近かったという。

なお秋田県は古くから対馬暖流の影響を受けやすいために冬季には雪がかなり多く降り積もり、水も豊富で良質なため肌にいい酒が出来るという。

また厳しい冬の寒さをこらえるために無口になり、おしとやかになったとも言われている。日照時間の少なさや春季から秋季にかけてのおだやかな気候の影響もあろう。

また、秋田は過去から大陸の貿易を行っていた為、白人の系統の血が秋田の地に流れ込み、「秋田美人」の発祥に繋がったという説もある。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

加賀藩前田家の居城、金沢城。使われているヒバ(翌檜)材は、北前船が東北・青森から運んだものである。兼六園のことじ灯篭の石材も、北前船が持ち込んだ、とされている。

北前船主の庭園だった加賀市橋立の蔵六園。ここの庭石は、北前船によって全国各地から集められた。

茶の湯や美術品などにも造詣が深く、優れた教養人としての一面を備えた北前船主も少なくなかった。雪に閉ざされた北陸の冬。その雪どけを待って航海に出た北前船と石川の船主たち。

彼らの足取りは、敦賀、小浜から琵琶湖を通って京都に入り、そこから大阪に向かうのが一般的だった。多くの船員たちが信仰のために立ち寄ったとされる京都、東本願寺。ここに、石川の船主の名前がさん然と輝いている。

東本願寺玄関門。これは、美川町の北前船主、熊田源太郎が明治43年、単独で全額を寄進してられた。当時の金で5万円もの大金を単独で寄進したところに、信仰心と、思い入れの深さがうかえる。

船主たちは、京都から大阪の住吉大社にも立ち寄り、旅の安全を祈願した。

彼らの功績の中で、最も注目すべきは、北前船という交易船を通して、人と地域を結び、モノや文化を後世に、形として残していることだ。

美川町にある「呉竹文庫」。先の北前船主、熊田源太郎が、大正11年私財を投じて設立した。学術書や専門書、文芸書など貴重な文献の数々が収められ、地元の文化活動の一環として開放されている。

学術、教育の分野では、瀬越の大家家、橋立の久保家なども、地元の学校設立に多大な寄付を行った。そして、北前船主の一族から日本を代表する学者や芸術家が生まれていることも特筆すべき功績であろう。

隆盛を極めた北前船は、明治の半ばを過ぎると、衰退の一途をたどっていく。汽船や通信技術の進展などで、より早く、大量に荷物や情報が各地を縦断するようになり、物流の主役の座を取って代わられた。

明治維新による封建制の崩壊や電信の登場により、相場の地域的な格差を無くし、一攫千金的な甘味が無くなり、全国に鉄道が敷設され、北前船は役目をほぼ終えることになった。

それにしても、北前船の水夫のみならず北陸各県の船首たちまでが秋田に移住して土着しているということは、どういういうことなのだろうか。

遊女はすべて秋田女だったはずだ。素人女性も秋田人だった。そうした秋田女に北陸や近畿圏の男がどのように惚れて故郷を捨てたのか、そこは誰も研究していない。愚兄が少し研究している。2007・03・27

影薄かった秋田の北前船 渡部誠一郎
当に表日本と言う表現がピッタリの日本海海運も、主役は専ら北陸や畿内の人たちで、秋田の船は影が薄かった。

「秋田県史」第3巻「近世編」(下)によれば、明治も近い嘉永のころ(1848-54)、秋田の回船は土崎、能代の両港を合わせて19隻、それも200石級(30トン級)以上の船はわずか8隻に過ぎなかった。

諸国からの回船、年間600隻以上で賑わったという土崎港(現在は秋田市)からすれば、いかにも寂しい姿である。北前船の代表とも言うべき千石船(150トン)は「1航海千両の利益」とされ、建造費も同じく千両かかった。

単純計算をすれば、1年目は船代を稼ぎ、2年目からは「丸儲け」と言うわけだが、秋田の問屋は能登など北陸勢に比べて資本力が極めて弱く、千両の建造費を工面できるほどの才覚あふれた人材も乏しかったと言うことになろうか。

ちなみに幕末期の土崎湊は19町内、519軒の家が並び、雄物(おもの)川をさかのぼる川船は湯沢、西馬音内(にしもない)まで航行していた。

(土崎より北である)米代(よねしろ)川の河口に位置する能代(のしろ=野代)湊は、昔から土崎湊に次ぐ繁栄振りを見せてきた。筏で川を下って来る豊富な秋田杉のほか、金、銀、銅などを産出する広大な後背地を持っていたからで、金属の上方送りは能代湊の移出物の6割を占めていた時代もある。

もちろん海路は西回りと松前の両ルートを持ち、全国の物産が豊富に入荷していた。この賑わいは能代の文人宇野親員が1741年に書いた『代邑(だいゆう)見聞録)に詳しい。

寛永15(1638)年、加賀(現石川県)の3代藩主前田利常が米100石(15トン)を下関経由で大坂回漕に成功した。それまでは隣の敦賀に陸揚げして馬の背で琵琶湖畔の塩津まで陸送し、さらに舟に積み替えて大津に送り、再び馬の背で京坂に陸送していた。

それを前田利常は、当時既に船体の大型化などで低運賃化していたことに目をつけて「大坂直航方式」を実現したわけで、それまでより遥かに有利なものであった。

そこで徳川幕府も「西回り海路」の開拓に乗り出し、命じられた江戸の富商・河村瑞軒が1672年に開拓した。

瑞軒のルートは、それまでは陸路なら1年がかりだったものをわずか3ヶ月に短縮するものだった。まず奥羽(秋田)から日本海を南下し、下関から瀬戸内海を経て大坂に入り、更に紀伊半島を回り、下田経由で江戸に至るもの。

幕府が西回り海路の開拓に執心したのは、敦賀(小浜)経由陸送の経済的ロスよりも、100万人の大消費地・江戸を支える緊急性と、各地の天領(幕府直轄地)から年貢米などを安全確実に集める必要があったからだろう。

一方、各藩としても年貢米や余剰米を3都(江戸、大坂、京都)に送って金に換え藩財政を支える必要があった。西回り海路の確立は、双方にとって好都合だったわけである。

ただ奥羽地方の場合、江戸へ米を送るのに下関経由の西回りよりも、津軽海峡を経て南下した方が遥かに近道である。だが、その開拓を急がなかったのは(1)津軽海峡の潮流が激しく危険 (2)太平洋は日本海よりも波が荒い (3)東回りでは江戸へ米を送るだけで、帰り荷が乏しく、営業上のメリットが無かった、などのためと思われる。

尤も土崎湊は瑞軒(瑞賢とも)の西回り開拓より17年も前の明暦元年(1655)に自力で東回りの江戸回米船を出している。これは土崎湊―津軽海峡―品川を結ぶ450里(1832キロ)に及ぶ一大壮挙だった(『国典類抄』)。西回りでは江戸間で3216キロ。

北前船で秋田から移出された物資は米、木材、金属など「領主的商品」だったのに対し、移入品は自給できない木綿、繰綿、塩、蝋と蝋燭、砂糖、茶、瀬戸物、紙、畳表など約400品目。土崎と能代が主な取り扱い港だった。

北前船は年を経るごとに大型化して行ったが、そうした大船でも冬の日本海は無理だった。1本柱の1枚帆だから操船が難しかったろうし、何よりも夜叉にもたとえられる荒波は人間を寄せ付けなかったのである。

そういう日本海で甘い汁を吸ったのは北前船の船首たち、つまり大近江商人をトップに能登、加賀、越後、佐渡などの海商たちだった。角度を変えて言えば、日本海に最も陽が当ったのは、「島原の乱」以後の鎖国から、大型汽船が登場する明治半ばまでの「北前船時代」だけだった。

注記 筆者は渡部亮次郎氏の実兄。元秋田魁新聞常務取締役・元秋田市立千秋美術館館長(自著 シリーズ秋田の海 (1)「昔は表日本だった」安東氏顕彰会刊より抜粋)



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