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東湖の父母は武蔵七党の末裔か? 古沢襄
藤田東湖の研究は戦前の高須芳次郎氏らの労作で出尽くした観がある。たとえば昭和八年に刊行された「水戸学全集 全六巻」や昭和十六・七年刊行の「水戸學大系 全八巻」を超えるものは戦後出ていない。

ひとつには敗戦によって唯物史観の全盛時代を迎え、皇国史観に利用された観がある水戸学そのものが顧みられなくなった事情がある。私の蔵書である「水戸學大系 全八巻」の初版本も久しく本棚でほこりをかぶっていた。

しかし明治維新の思想的な骨格を為すものは、東湖が唱えた儒学そのものであった。中国から伝来した儒学思想は、江戸を中心とした江戸学派(江儒という)と京都を中心とした京都学派(京儒という)に分かれ、その京儒が江戸を飛び越えて、水戸に根をおろした。

江戸幕府を擁護する江儒に対して、水戸学派は天皇中心の統一国家論に立ち、より先鋭的で行動的であった。水戸学は薩摩の西郷隆盛、長州の吉田松陰、土佐の山内容堂らに大きな影響を与え、尊皇の志士たちにとっては、水戸が思想的なメッカとなっている。

東湖は、その中心的な人物であるが、系譜を辿ると藤田家そのものが微禄とはいえ、水戸学を育んだ特異な家系であることが分かる。戦前の水戸学研究は東湖を中心とする諸文献を網羅しているが、その家系からくる背景の研究が十分ではなかったと思える。

戦前、戦中の東湖熱が高かった時代でも、文献論に偏り、戦後のような広く求める資料発見が、必ずしも十分でなかったといえる。文献論が一部を利用され、東湖の神格化につながり、皇国史観に利用された観が否めない。

唯物史観全盛の時代が去り、実証的な歴史観が重んじられる時代になって、水戸を中心にして水戸学や東湖の事績を再評価する研究が生まれている。皇国史観に煩わされない動きとして注目しておきたい。東湖の遺した著作はあまたあるが、意外と人間臭く、父母に対する畏敬と情愛が細かい。

その最たるものは、安政の大地震(1855年)で母親の梅子を助けて圧死し、四十九歳(満年齢)の生涯を閉じたことである。この時の梅子はいったんは家から逃れたが、火鉢の火を心配して、揺れ動く邸内に戻った。母を追った東湖は、崩れ落ちる梁を自らの肩で受け止め、母を逃がしたが、梁の重さに耐えきれず下敷きとなって圧死した。

東湖の不慮の死を惜しむあまり、梅子については、あまり語られていない。しかし東湖の母らしい気丈な女性だったことは、次の東湖に宛てた手紙で偲ばれる。

<日を追うて、寒冷いや増し候ところ、いよいよ御障りもなく、御慎みなされ候御事、御欽び申入候。この地にても、一統息災に暮し居候間、御安心なされ候よう存候。例月の通り、金二両、外に御下衣綿入一つ、御袴一具、白御足袋一足、ならびに組二足(行・力の分)鰹節二つ相廻し由候。御落手なさるべく候。>

冬を迎えて東湖の身を案じる母親の心が滲みでているが、東湖に従っている下僕の和田力平、塚田行蔵にも足袋二足を送る心遣いをみせた。手紙は「御家来御両人へも憚りながら、宜しく御申渡し下さるべく候」と結んでいる。母性愛もさることながら、簡潔にして要領よく記された手紙は母親の威厳が備わっている。

東湖は生涯、この母を慕った。東湖は詩文に優れていたが、和歌はそれほどではない。しかし母・梅子には惜しみなく和歌を書いて送っている。

   これも亦(また)若菜のためし 君が身を 千代にと祝う しるしともみよ
すす菜の漬け物を母に送った時に添えた一句である。

東湖の子二人は、梅子が育てている。祖母の下にある二人に錦絵を送って、添えた二首。
   梓弓春の遊びの戯れも 踏みたがえへぞ 物部の道
   鹿島なる武御雷の そのたけき 神のしわざを 心してしか

梅子は東湖の父・藤田幽谷の妻。幽谷は水戸市下谷町の古着商・藤田与右衛門言徳の次男として生まれたが、十一歳で詩文を作り、十三歳で文章を書くという天才児であった。与右衛門言徳も商人でありながら、志高く、武士らしい気品があったという。幽谷は、この父に育てられ、学問を修めて士分に登用されている。四十三歳で水戸の彰考館総裁。

したがって妻となった梅子の出自も並のものではない。最近、梅子の実家の末裔という方から、実家は「丹」姓というご教示を得た。

「丹氏」は、武蔵七党の丹党という屈指の大族。武蔵七党系図では宣化天皇の末裔で、天慶年間に故あって武州に配流、この地の豪族となった。その荘園は二十五ともいわれている。

興味があるのは、藤田家も武蔵七党の横山党の流れを汲むとみられていることだ。横山党は、文武の才ある者が輩出している。遡れば小野篁の末裔。藤田一族の文武の才に注目した高須芳次郎氏は「藤田幽谷の祖父の時に(武蔵から)常陸に流寓」と推定している。

東湖を生んだ両親の家系を辿ると武蔵七党に行き着くという仮説を私は立てているが、当たらずとも遠からずと思っている。ついでながら茨城県の下妻市で勢威をふるった戦国大名の多賀谷氏も武蔵七党から出たと思われる。
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