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陸軍記念日があった 渡部亮次郎
「陸軍記念日」というものがあったことを知っていますか。3月10日。これを知っているのは少なくとも70歳以上の人です。

<陸軍記念日 (りくぐんきねんび) は、日本帝国陸軍の場合、戦前・戦中の休日のことで、3月10日。

明治38年同月同日、日本とロシアが戦った日露戦争の奉天大会戦で日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領、奉天城に入場したのがこの日であった。そこで翌年からこれを記念して国民の休日としたもの。1945年の敗戦(第2次世界大戦)に伴い廃止された。>

私は1945年に小学校(国民学校)4年生だったから、よく知らない。そうやって大人になったが、NHK記者として大阪に勤務し始めた時に「陸軍記念日」というものを強烈に意識することとなった。例の小野田寛郎(おのだ ひろお)出現の日だったからである。

日本の敗戦を知らずに、そのままフィリピンのルバング島に残地蝶者として残っていた日本陸軍少尉小野田寛郎が昭和49(1974)年3月10日、ようやく日本からの捜索隊の前に姿を現し、帰国の意思を明らかにした日である。

小野田さんは和歌山県海南市の出身だった。戦後既に29年。捜索隊がルバング島で捜索を開始。姿を現すのを今か今かと日本中が息を呑んでいた。

特に海南市で朗報を待つ両親のその瞬間を捉えようと関西のTV各社が自宅に押しかけた。しかし何日経っても現れない。各社は大阪へ帰った。

その時、私が何気なくかけた電話に後の外務大臣園田直さんが問題の一言を洩らした。「ナベしゃん、明日は陸軍記念日ばい。明日、出てくるとバイ」。陸軍記念日って? 「それが3月10日バイ。小野田さんは生粋の軍人だから明日出てくるとばい」

「東郷さん、民放は皆帰ったけれど、私らは明日までもう1日、居ります」と大阪の報道部長の許可を貰った。中継の一行20人の出張延期は大枚の支出であった。

期待通り、小野田さんは10日に姿を現した。感涙に咽ぶご両親の映像はNHKの特種となって全世界に放送された。だから私の生涯で陸軍記念日は忘れようとして忘れることの出来ない記念日なのである。

あれから33年も経った。33歳以下の人は小野田さんもルバング島も分からないだろう。長くなるが、記録を引用して紹介しておきたい。日本人には凄い人もいたのである。

1922(大正11)年和歌山県海南市に生まれる。父種次郎、母タマエ、長兄敏郎(軍医中佐)、次兄格郎(元主計曹長)、姉千恵、弟滋郎(元少尉)。旧制和歌山県立海南中学卒業後貿易会社に就職し中国大陸に渡り、中国語を習得。

上海の商事会社で働いていた頃、現地召集を受けて1942(昭和17)年、現役兵として歩兵第61連隊に入隊。転属等を経て、陸軍甲種幹部候補学生に合格、陸軍予備士官学校に入学、卒業後、当時軍の上層学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校として育成され卒業する。

中国語や英語に堪能だった事から、1944(昭和19)年12月、遊撃戦の指導の任を与えられフィリピンのルバング島に着任。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍は小野田少尉を相手にせず、米軍上陸後は簡単に撃破されて山間部に逃げ込んだ。

小野田少尉は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共にゲリラ戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都マニラの位置するマニラ湾の出入り口にあり、この付近ではマニラを母港とする米軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。

1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、部下(赤津一等兵:1949年投降、島田庄一伍長:1954年5月7日戦死、小塚金七上等兵:1972年10月19日戦死)と共に戦闘を継続し、ルパング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。その為、日本では1945年9月(敗戦1ヵ月後)に戦死公報を出される。

持久戦法を立てて米軍に挑み、島内にあったアメリカ軍レーダー基地への襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、刀などであり、そのほか放火戦術も用いた。

この間にアメリカ軍レーダー基地司令官を、狙撃で重傷を負わせるなど、多くの武勲を立てている。地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は独りで密林の中で単独任務を遂行している。

手に入れたトランジスタラジオを改造し、米軍倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って手製のHF無線機を作り、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。

また、日本からの捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、皇太子御成婚や東京オリンピック等の日本の情勢を知った。しかし、小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権が在ると考えた。

また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、ベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。

このように、戦後、小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかった為に、30年間も戦い続ける結果となった。

1972年10月22日、23日、24日、25日、日本兵射殺事件を受け、援護局職員及び小野田元少尉と小塚元1等兵の家族、戦友が逐次ルパング島に赴く。遺体が小塚金七1等兵である事を確認する。

小野田少尉の捜索が行われるが発見には至らず(後に元少尉は捜索隊の存在を認知しており、密林の中に兄の姿を見ていた事を告白している)。

1974年、一連の捜索活動に触発された日本の青年・鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に彼との接触に成功する。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。

3月9日に嘗ての上司である谷口義美元少佐から任務解除命令が下り、小野田にとっての戦争は終わった。翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。

小野田はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。

司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。こうして小野田は30年の戦いを終え、3月12日帰国を果たした。

帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や現地住民との銃撃戦によって多数の住民が死傷した出来事が明らかになった事(フィリピン政府当局の判断により、小野田の訴追は見送っていた)、また本当に敗戦を知らなかったのかという疑問が高まるにつれて「軍人精神の権化」、「軍国主義の亡霊」といった批判が報道機関から表れた。

父親との不仲等もあり、大きく変わった日本社会に馴染めず、帰国の半年後に次兄の居るブラジルに移住して小野田牧場を経営する事を決意。帰国後結婚した妻の町枝と共に移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。

その後、凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めたとして「祖国のため健全な日本人を育成したい」と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰。

自らの密林での経験を基に逞しい日本人を育成するとして、講演会や野営等を行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復し続けている。

2004年12月17日、日本人として初めてサントス・ドゥモン勲章を、更に2005年11月3日、藍綬褒章を受章した。 妻・町枝は現在、日本女性の会会長である。(出典「ウィキペディア」)2007.02.10
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