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直木賞が綾なす人間模様 古沢襄
「時の流れは速く、本の命は短い。でも、それでいいのだろうか?」は編集者の坂本政謙氏の言葉である。私も同じ思いを持っている。個人的には十五年も住んで、あちこちにいたみがでたわが家の三部屋は本で埋まっている。父・古沢元が遺した蔵書千五百冊に私の蔵書三千五百冊、一時は本棚に二重に並べて置いたが、必要な本を見出すには不便であった。

仕方ないので床に並べてある。積んでおくと倒れて大騒動になるから、並べた本の列をひょいひょいと鶯の谷渡りよろしく跨いでいるのだが、愛犬バロンが主人の真似をして巧みに跨ぎ跳びをしている。五千冊の本に関するかぎり「本の命は長く、永遠」なのだが、古書を求めるとなると「本の命は短い」と思わざるを得ない。

「消えた受賞作 直木賞編」の著者・川口則弘氏から<第12回(昭和15年下半期)の直木賞で候補に挙げられた古沢元氏と、その作品「紀文抄」のことをインターネットで検索しているうちに、古沢襄様のことと、杜父魚文庫のことを知りまして、こうしてメールを差し上げております>という便りを頂戴した。

一九八二年に古沢元・真喜夫婦作家の遺稿集を発刊した時に「紀文抄」を入れたいと思って東京・駒場の日本近代文学館で掲載誌「麦」をみたのだが、「紀文抄」が掲載された一九四〇年九月号だけがなかった。仕方がないので「日暦」一三号、一四号に連載された処女作「びしゃもんだて夜話」を入れて、それを遺稿集の表題にした。爾来、「紀文抄」は私にとって幻の小説となった。(同人雑誌「麦」。一九三九年に倉光俊夫、池田源尚、古沢元、山田一彦の四人で刊行。倉光は一九四〇年「連絡員」で芥川賞、池田は一九三九年「運・不運」で改造社文芸賞を受賞)



二〇〇六年に町村合併による岩手県沢内村の閉村事業のひとつとして「古沢元作品集」が発刊された。その中に幻の「紀文抄」が収録されている。盛岡市在住の文芸評論家・吉見正信氏が探し当ててくれていた。やがて高橋繁西和賀町長から作品集が送られてきた。高橋町長は直木賞受賞作家・高橋克彦氏の叔父に当たる人である。

直木賞をめぐる話には続きがある。古沢元は一九二六年に旧制盛岡中学を卒業して、仙台の旧制第二高等学校に進学している。そこで生涯の友となる直木賞作家・大池唯雄氏と出会った。大池氏は上京すると古沢宅に泊まっている。

大池氏の本名は小池忠雄。一九三八年下半期に「秋田口の兄弟」「兜首」で第八回直木賞を受賞。当時は東北初の直木賞作家ということで話題になった。大佛次郎に認められ、山本周五郎からも上京して、作品を書くように勧められているが、郷里に踏みとどまり、歴史物を主題とする小説を書き続けた。

一九六四年には原田甲斐をテーマにした戯曲で「文藝朝日」戯曲第一席を得ている。一九六七年には朝日新聞社から「史談 セントヘレナの日本人」の短篇集を出版。しかし一九七〇年五月二十七日、仙台市内を歩行中に倒れて不帰の人となった。遺作に戊辰戦争を描いた「炎の時代」がある。

古沢元の旧友だった田宮虎彦氏はフィクションの歴史小説に独自の境地を開いたが、大池氏はむしろノンフィクションの歴史小説に終生こだわりをみせた。「史談とはヒストリカル・ノンフィクションであり、いわゆる時代小説とは対蹠的な立場のもので、少なくともこれは歴史の真実を追求しようとしているものである」とは大池氏が遺した言葉。史実の宝庫である仙台の地を離れなかった生き様を貫いた。

一九六六年七月九日の河北新報に「亡友の写真に思う」という大池氏の一文が出ている。この四年後に大池氏は亡くなった。

<世にはまことに思いがけないことがある。そのころまだ現在ように有名でなかった土門拳氏が撮影した亡友の写真を送られて、私はつくづくとながめ、ただなつかしいというばかりで、深い感慨にうたれている。(無名時代の土門拳の写真)



古沢元については、私は語るべきことがあまりにも多く、回答に苦しむのである。二高では同級生で、文学グループであったが、彼は左翼運動のために中退し、上京してナップ(全日本無産者芸術団体協議会)の機関紙「戦旗」の編集などをやっていた。この雑誌は間もなくつぶれたが、一方、作品も発表して、新進作家として認められはじめていた。

池田源尚、倉光俊夫、古沢元の三人で「麦」という同人雑誌をやっていたが、池田がまず当時の「文藝」に当選し、倉光が芥川賞になり、古沢が直木賞候補になったこともあった。私は当時、療養中であったが、たまに上京するとこの古沢の家に泊まった。

私はある雑誌に当選したが、これが大佛次郎氏の目にとまって、その推薦で「新青年」に書きはじめていた。大佛氏から会いたいという手紙をいただき、胸を躍らせて上京したときも、古沢の家に泊まったが、「人民文庫」を主宰していた武田麟太郎氏に会ったのもそのときであった。盛夏のことで、丸はだかにサルマタひとつで、二階で原稿を書きながら、武麟さんは私と話したが、そのときの印象は強烈である。

古沢は端正な風ぼうの持ち主で、まれにみる美青年であった。盛岡中学時代は剣道の選手であり、二高に入学するときにはクラスで二番の秀才で、特待生として岩手県から奨学金を受けていた。

いま生きていたら、むろん作家として相当の地位を築いていたろう。ある雑誌で高見順氏が彼のことを非常にほめているのを読み、遺児の古沢襄に知らせてやったことがある。「父がこんなに高く評価されたのを見るのは、はじめてです」といってきたが、その高見氏もなくなってしまった。

時代を最も象徴的に生き、むなしく異郷に死んだ旧友の生涯を思えば、私の心腸も熱する。彼に恥ずかしくない作品を残さなければならないが、私はまだ書きあげていない。いまにもその声が聞こえてきそうな旧友の写真を前にして、人間の一生を思い、生命の尊さを思い、また人はいかにして生きなければならないかを思う。

古沢よ、もう一度文学を語り合いたい。もう一度肩をならべて東一番丁をあるいてみたい。>
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