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薄れ行く東京大空襲 渡部亮次郎
私が住まいしている隅田川左岸の東京都「江東区」は昭和18年に都制が導入され、深川・城東の2区が合併し現在の江東区が生まれた。さらに同年、新しい地方自治制度によって、今の23区制となった。特に深川は昭和20年3月10日未明の米軍大空襲の第1弾が投下されたところである。

東京大空襲と言われるこの爆撃では8万人以上(10万人ともいわれる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。

昭和29(1954)年早春に上京した時、東京大学近くの街には、空襲被害の瓦礫の山がまだ、そこここに残っていた。あちこちに門柱がころがっていた。田舎少年に東京大空襲の記憶は無かった。

ところで深川には三業地があった。堅物ぶる広辞苑で引いても三業地とは三業の営業を許可された一定の地域としか出ていないが要するに料亭、待合、芸者置屋が纏まって営業する「粋な」処である。しかしこの爆撃で深川は消滅した。

深川の歴史を語る上で、花街と芸者は切っても切れない。辰巳(巽)芸者は、「広辞苑」でさえ拒否できなかった由緒ある盛り場だった。「江戸深川の遊里の芸者。きっぷが良く、張りがあるとされていた」と解説しているぐらいだ。

深川が江戸城の巽(東南)に位置していたことから巽(辰巳)芸者と呼ばれた。辰巳芸者はまた、もともと男が着る羽織を身につけ、男風の名前で座敷に出たため、羽織芸者とも呼ばれていた。

辰巳芸者のはじまりは、日本橋葭町(よしちょう)の人気芸者:菊弥によるとされている。菊弥は、その芸があまりに達者で仲間から疎まれたため深川に移り住み、唄・三味線の師匠と茶店を始めたところ、これが人気となり多くの人が集まるようになったと伝えられている。

これが後の、深川の辰巳芸者と料理屋・料亭街につながるのである。深川の花街に人気があったのは、それを支える経済・人と密接な関係があった。

江戸時代の豪商として有名な紀文(紀伊国屋文佐衛門)と奈良茂(奈良屋茂左衛門)は共に材木商であり、その富と豪遊ぶりは有名であった。

特に紀文は、吉原を一日借り切るなど派手な遊びをしていたが、木場付近には材木商が多く住み莫大な金と多くの使用人を抱えていた。さらに明治になると、佐賀町に米取引所ができ米商人が材木商にとってかわり主役となり、深川の料亭街は盛況を増していった。

ただ現在の深川は、経済の中心からやや外れた存在となり、かつての料亭街もビルに様変わりして、飲み屋、スナック、カラオケハウスとなっているものが多く、辰巳芸者の姿も、見られない。昭和20年3月10日未明の空襲で辰巳芸者は家と共に昇天を余儀なくされたのである。

武蔵野に住まいしていた私が事情あって江東区に拠点を移した昭和63(1988)年ごろ、隅田川に程近い森下で滝 保清さんという家具屋の社長と親しくなり、「赤い吹雪」と言う薄い本を渡された。

それが敗戦の年、昭和20年の春3月10日未明の、米軍による東京大空襲で祖父母と妹を失った魂からの痛恨の書だったのである。

3月10日の大空襲は、日本の軍需産業が中小企業が生産拠点となっていることから考え出された。市街地と市民そのものを攻撃対象とし、日本軍には低高度での有効な対空火器が存在しないことに注目した故に行なわれた低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の3個航空団が投入された。

1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。

投下された爆弾の種類は油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などであり、投下弾量は約38万発、1,700tにのぼった。

日本が中国戦線で数年に亘って繰り広げた重慶爆撃の全投下量は1万8000トンであり、その10%に相当する量を一夜にして投下したのであるから、この空襲の規模の大きさを窺い知ることが出来る。

当夜は低気圧の通過に伴って強風が吹いており、この風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。

警戒用レーダーのアンテナを揺らしたため、確実に編隊を捕捉できず空襲警報の発令を極端に遅れた(発令されたのは初弾投下後の0時15分)。

「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入したことで、爆撃機編隊を通常よりも低空で侵入させ、そのまま投弾させたため、着弾範囲が以前より精密だった。

(逆に火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の予定地域ではない場所で投下した記録もある。そのため、火災範囲がさらに広がった箇所もある) 強風が火勢を煽り、延焼を広げた。

調布・入間・成増・所沢・厚木・柏・松戸等、東京近郊の飛行場に配備されていた陸海軍戦闘機隊の発進を妨げたため、ただでさえ絶望的に少ない迎撃のチャンスを奪った(通常は戦闘機が到達できない高度から爆撃を行っていたが、この日は違った)

このとき使用された焼夷弾は日本家屋を標的にしたものであり、ドイツがロンドンを空襲した際に不発弾として回収されたものを参考に開発された。当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。

米軍が苦心したのは畳を貫通し、爆発よりも燃焼する新型爆弾の開発であった。特に畳の構造が分らない。そうだ、ハワイだ。日本からの移住者から畳を入手した時の関係者の喜びようったら無かったそうだ。

通常、航空爆弾は瞬発または0.02〜0.05秒の遅発信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを破壊力の主軸にしている。しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。

そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発され、これが木造を主とする日本家屋を直撃した。 また爆撃の方法も左右を先に爆撃して炎の壁をつくり、その間に避難して炎に挟まれた群集を、後続の爆撃機でその炎の壁の間を爆撃して焼き殺すという戦法が採用された。

火災から逃れるために、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が大きく、炎が竜巻や滝のように流れてきて焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息(ちっそく)死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も少なくなかった。

戦後、我々を勇気付けてくれた「リンゴの唄」の並木路子さん。彼女も3月10日未明、新大橋の袂で母親と死に別れ、悲しみにくれている人だった。「悲しいのは君だけではないのだ」と慰められて歌った歌が「リンゴの唄」だったという。

3月10日は嘗ての日露戦争の奉天戦勝利の日であり、陸軍記念日となっていた。日本の戦争継続の気力をそぐ為、あえてこの記念日が選ばれたと言われている。しかしアメリカは肯定も否定もしていない。なお東京大空襲に関するアメリカ軍の損害は撃墜・墜落12機、撃破42機であった。

古沢襄追記 作家・古沢元の妻まき子は三月十日の大空襲を身をもって体験した。生々しい恐怖の体験を日記に遺している。

三月十日 未明、B29が130機来襲。本所、深川、本郷、浅草、蔵前、千住など下町の大半は灰燼に帰す。翼壮、翼賛会、司法省、警視庁の一部、都庁も丸焼けなり。この日の罹災者百五十万、死傷者十七万という。関東大震災以上の被害なりときく。(母の安否を気遣って見舞いにきた特高警察・一ノ瀬氏の情報、新聞にはでていない)

これに先立つ三月三日に古沢元は召集令状を受けて、弘前連隊に入隊。元の実弟・岸丈夫(漫画家)は三月四日に召集ありて横須賀海兵団に入団、義弟の杉浦幸雄(漫画家)も同時に横須賀海兵団に入団した。まき子の実弟・木村金一郎中尉も三月十七日に召集されている。

三月十七日 一ノ瀬氏に軍公用の切符をとってもらい身をもって東京を脱出する。警視庁原宿署の渡辺、小平、都筑氏(いずれも特高警察)らと一ノ瀬氏の助力がなかったら、おそらく死の東京を脱出することは、あの場合、私には不可能であったろう。(プロレタリア作家として特高警察から、つけ狙われた古沢元の妻が、特高警察官たちに助けれたというのも敗戦史のヒトコマとなった)
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