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監査役は有名歌手 渡部亮次郎
日本の演歌をドイツ唱法やベルカント唱法で歌うのは悪趣味であり、「分類すればゲテモノ」だと2006年11月10日の我がメイルマガジン「頂門の一針」に書き、月刊誌「カレント」にも書いた。

それを、どこかで読んで下った74歳のバリトン歌手山本健二さんから「同感だ」と言うメッセイジを副えて、2006年収録の、ご自身のCDを送ってきて下さった。「落葉松2」と題して「浜辺の歌」「椰子の実」「城ヶ島の雨」「初恋」など日本の唱歌、童謡16曲をピアノ伴奏で謳いあげたものだ。

既に74歳。自身の経験からすれば、声帯はかなり衰えているだろう、大会社の監査役まで上り詰めた男の「物好き」だろうとタカを括って聴いたら、大変!突然、居住まいを正す破目になった。素晴らしいの一語に尽きる。

CDをすでに22枚も出しておられて斯界での活躍も多岐に亘っている。NHKの深夜便にも登場されていると言う。会社に隠れて音楽活動を続け、やっと勤めを終えたので歌手、音楽家として表に出てこられたのである。知らないのは私だけだったろうか。

ご自身のホームページから引用する。http://bariken.com

山本健二 1933年(昭和8年1月) 釜山府(韓国)に生まれる 1945年(昭和20年) 釜山中学1年のとき終戦により福岡に引き揚げ同年旧制の県立福岡中学へ編入、そのまま新制福岡高校へと進学。

昭和26 (1951)年卒業。早稲田大学に進学。在学中はグリークラブ学生指揮者として活躍。早大卒業後日本信販に入社し、フジタ道路監査役で終えるまで44年間のサラリーマン生活を送る。

その間音楽活動を続け、早稲田大学グリークラブ、共立女子大学合唱団、稲門グリークラブ、フレーベル少年合唱団の指揮者を歴任、早大グリークラブのヴォイストレーナーとして2003年まで23年間
指導に当る。

自身のコンクール歴は、第35回NHK・毎日音楽コンクール (現・日本音楽コンクール) 声楽部門入選、第3回新波の会日本歌曲コンクール歌唱部門第1位、並びに荻野綾子賞受賞、朝日新聞社主催西日本高校独唱コンクール (現・全日本高等学校声楽コンクール) 第2位、NHK洋楽オーディション合格。ニコラ・ルッチ、ロドルフォ・リッチ、中山悌一の各氏に師事。特に中山悌一氏には16年歌唱の基本を学ぶ。

NHKラジオ深夜便では、山本健二のCDより日本の抒情歌などがよく放送されている。2002年各地の女子少年院(福岡、広島、丸亀、仙台、千歳)を訪問した時、「荒城の月」は少女達(15〜18歳)に深い感銘を与えた。その時の少女達からの感想文は、NHKラジオ深夜便「こころの時間」で放送された。

都内におけるリサイタルは有楽町マリオン朝日ホール、銀座ヤマハホールにおいて連続21年間行い、2006年12月3日、22回目のリサイタル。その他、札幌、仙台、盛岡、象潟、浦和、横浜、宝塚、広島、北九州、長崎、宗像、福岡、名瀬市(奄美大島)などの日本各地で行っている。

言葉の情感にふれる歌唱をモットーに、日本の叙情歌を中心としたリサイタル活動並びにCDの制作を続け、現在「山本健二歌唱アルバム」全21集(319曲)は銀座ヤマハ、山野楽器などで 10 年以上のロングセラーを続けている。

(財) 北原白秋生家保存会理事  NPO法人日本童謡の会常任理事 秋田県象潟町ふるさと宣伝大使  福岡県柳川市柳川観光大使  大分県竹田市竹田研究所特派員

1948年(昭和23年)福岡高校で音楽専任教師江口保之先生と出会う。1学期末、音楽のテストで私の歌を聞いた先生は音楽部へ入部せい!とかなり強引に私を入部させた。先生は私をおだてあげ、私もそのおだてにいとも簡単に乗ったのだった。今にして思えばこの先生との出会い、先生のおだてが私のライフワークを決めたのだ。

母から歌好きの遺伝子をたくさん貰った私はそれまで知らなかった歌を江口先生から教わるのがとても楽しかった。日本の歌もあったが外国の名曲を多く教えて頂いた。

夏休みに入る前、突然先生は「君は修学旅行に1度も行ったことがないだろう、この秋、阿蘇を見に連れていこう、但し行った先で1曲歌うことになるがそれは教えてあげよう」。

秋、草千里が原などの阿蘇の雄大な眺めを満喫して着いた先は、瀧廉太郎が『荒城の月』を作曲したときイメージしたという岡城のある大分県竹田市だった。 岡城阯に設けられた仮設のステージの上で私は人の前で始めて一人で歌った。

曲はトスティーのセレナータだったが、このステージは朝日新聞社主催の西日本高校独唱コンクールで、成績は2位だった。江口先生はそのことを予め言うと私が拒否する事が分かっていたので阿蘇を見に行こうと言われたのだ。

しかしもともと音楽の道に反対だった親に露見しあえなく挫折。早稲田大学に入って1952年(昭和27年)から4年間のワセグリ(早大グリークラブの略)ライフは人の出会いと音楽生活で実り多いものだった。2年上にバス歌手の岡村喬生先輩、同期に小指の思い出の作曲者鈴木淳。

後輩にボニージャックスの4人のメンバー(3人の結婚披露宴の司会は私)、4年生のとき学生指揮者となり、合唱コンクールでは3年ぶりに優勝した。

この頃からクラッシクの声楽家や合唱団の日本語が良く分からないのはなぜだろう、流行歌手や演歌歌手のは聞き取れるのにとの思いが強くなった。

1956年よりサラリーマン、合唱指揮者、声楽の勉強(独唱者として)の3足の草鞋が始まった。イタリアオペラが来始めると資金の続くかぎり聴きにいきその声の響きを感性に染み込ませ、芸大、武蔵野音大の教授をしていたイタリア人の先生についてオペラのアリアを勉強した。

1964年、自分の歌唱がどの程度のレベルにあるのか、と思い音楽界へのプロの登竜門であるNHK・毎日音楽コンクール(第35回)を受けた。サラリーマンが声楽部門入選ということで新聞記者のインタヴィユーを受けたが、当時は高度経済成長時代で会社に知れると困るので記事にする事は取り下げ願った。

この後、ドイツリードも勉強しなくてはと思い立ち、中山悌一先生に教えを請うた。爾来、16年間微にいり細にわたってドイツリードの歌唱法を教わった。

ドイツリードでは敵わないが日本の歌ではディスカウやプライよりも上手く歌えるかもしれないと思った私は日本の歌…日本語とは何かを勉強し始めた。

日本語は思いやりにあふれる言葉であることにも気付いてきた。二人称の表現も豊かである、また日常的にへりくだる形で受身形を使っている、とすれば自己主張をするような歌唱は日本語にはふさわしくない、日本の言葉の奥底には日本の民族が千年以上に亘って育てたやさしさと常に相手に対する思いやりがある、このことを心にとめて歌っていこう、・・・・

また、日本の童謡・唱歌・抒情歌にはなにか"もののあわれ"を感じさせるものがある、"もののあわれ"を感ずれば人に対し或いは自然に対しやさしくなるだろう、日本人の奥底にある祖先から受け継いだやさしさの感性を目覚めさせるものとして『日本の歌大好きな人の輪』を広げようという活動を始めた。

自己主張の強い歌唱ではなく、日本の風土に合った、日本の言葉にふさわしい歌唱で言葉の情感に思いを込めて歌っていきたいと願っている。

私の今日あるのは、両親を含めた多くのご先祖様から頂いた体と感性、江口保之先生との出会い、更に多くの方々との出会いとご支援によるもので感謝の念でいっぱいでありここ近年は「歌うは祈り」の心境となることがしばしばある。 平成13年8月20日 山本健二 

日本橋人形町にあるオフィスから23日午前、山本さんから電話を戴いた。「日本の歌には詞に独特の心が読まれています。それが伝わるように何十回、何百回となく歌うと、その歌にあった唱法が出来上がる。

音楽大学ではそのことを分らぬままドイツだベルカントダとむやみに押し付けるから、日本人が日本の歌を歌っているのに、日本の心が日本人に伝わらないと言うことになってしまう」との趣旨のことを仰っていた。いずれ時期を改めてこのことを書きたい。2007.02.23
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