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板東武者の栄枯盛衰を刻む平城 古沢襄
「茨城の城郭」という近刊書を頂戴した。茨城県には中近世の城郭跡が1000城あると聞いていたが、この本は140城を選んで、図や解説文で紹介している。昨年夏に探訪した牛久城趾も詳しく出ている。(茨城の城郭・図書刊行会)



私の場合は城の美しさよりも、その城にまつわる戦乱の歴史に興味がある。景観の素晴らしい播州・白鷺城にも心を惹かれるが、やはり板東武者の栄枯盛衰を刻む素朴な戦闘用の山城や平城(ひらしろ)、丘城に興味を持つ。「変わっていますね」と変人扱いされたこともある。

人それぞれなのだから、何を言われようと気にしないのだが、天気のいい日に愛犬バロンをマイカーに乗せて、中世の城めぐりというのは結構楽しい。ところが多くの城趾は言い伝えが残っていても、確実な歴史史料に乏しい恨みがある。その城趾も宅地開発や農地と化していて、すぐには分からないことが多い。さらには私有地となっているのが大部分なので、勝手に入ることが出来ない。

常陸国の大守といわれた佐竹氏の本城は「常陸太田城」(太田市中城町)だが、明治時代に廃城、跡地は宅地開発のために土塁は破壊され、堀も埋められた。僅かに小学校西側で土塁の一部が残っているに過ぎない。佐竹氏が家康によって秋田に転封されたので、御三家の水戸藩のものは保存されたが、佐竹文書などは秋田県で保存されている。

佐竹氏と盟友関係にあった多賀谷氏の居城は下妻城(下妻市本城町)。鬼怒川東岸に位置して、大宝沼を背にした典型的な水城であった。この城は家康の命によって破却されたので、その遺構は見ることができない。それでも何度か出掛けている。復元想像図を手にしながら、想像の世界で遊んでくる。

鬼怒川西岸の八千代町には和歌城(八千代町若)と太田城(八千代町太田)があった。いずれも赤松系古沢氏と縁が深い城である。ここも何度か足を運んだが、和歌城の遺構はほとんど壊れている。この地に和歌十郎という土豪がいたが、後北条方についたので、多賀谷氏の命を受けた赤松民部が攻めて滅ぼした。和歌城には多賀谷氏で廃嫡された三経が入城、やがて太田城を築く。

鬼怒川の東岸と西岸に城を持った多賀谷氏だったが、西岸の多賀谷氏は結城氏側について東岸と対立する。この事情は世間によくある話だ。下妻城の多賀谷重経は佐竹氏と結ぶことによって結城氏を押さえようとした。そのために長男の三経をわざわざ廃嫡して、娘の婿に佐竹義宣の弟・宣家を迎えている。

この政略結婚に三経は反発して、結城秀康と意を通ずるようになる。結城秀康も家康の子でありながら、疎まれて養子に出されている。秀康と三経の間に通い合うものがあったのではないか。太田城の遺構は、巨大な土塁などが残っている。関ヶ原の戦いで家康は、佐竹、多賀谷、上杉ら石田三成に心を寄せる武将の押さえとして、秀康を関東の総大将に任じた。三経も秀康の重臣として下妻城の父の動きを牽制している。

多賀谷家臣だった赤松系古沢氏にとっても大事となった。私は二つに分かれたとみている。下妻城に残ったのは八百石取りの古沢助大夫、四百五十石取りの古沢新右衛門。佐竹文書に出てくる古沢助丞は助大夫の子ではないか。多賀谷宣家に従って秋田に赴いたとみている。新右衛門は土着して八千代町川尻に残った。

西岸の太田城に残ったのは五百石取りの古沢隼人。多賀谷三経の家臣として越前に赴いたとみている。他に三百石取りの古沢大膳、古沢佐渡、古沢弾正がいるが消息は分からない。土着した可能性がある。暖かくなったら、城めぐりや墓めぐりをする楽しみがある。春が待ち遠しい。
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