<< 日本外交にとって正念場の年 古沢襄 | main | カネを喰うのは有権者 渡部亮次郎 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - | pookmark |







痛くない注射の出現 渡部亮次郎
日本で記録上初の糖尿病患者は藤原道長とされている。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、

<藤原道長(ふじわらの みちなが)康保3年(966年)―万寿4年12月4日(1028年1月3日))は平安時代の貴族、廷臣。

道長の邸宅で開かれた宴会の席上、即興の歌「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだということでも有名だ(『小右記』、原文漢文)。

晩年は壮大な法成寺を建立してそこに居住していたが、多くの子供たちに先立たれ、病気がちで安らかとはいえなかった。

病名ははっきりとは分かっていないが、記録から癌又は糖尿病ではないかといわれている。また一説にはハンセン病であったという説もある。>

この点について日本の糖尿病学界では記録上、日本における患者第1号が道長だとしている。享年62となっているから、当時としては大変な長寿者であった。しかもインスリンの未発見の時代に、よくも、とぞ思う。

晩年の道長はやたら喉が渇いて水を飲んだ。傍へ行けば甘い匂いを発散させていたのではなかろうか。しかし当時のことだからこれが如何なる病気であるか、分かる者は存在しなかったこと、当然である。

今でこそ糖尿病は解明されつつあるが、分かりかけてからまだ100年は経っていない。人間の食べる食物は咀嚼されて胃で消化し、ブドウ糖になり小腸から血液に吸収される。

ところがそこへ膵臓から出るインスリンというホルモンが欠乏すると十分吸収されずにブドウ糖のまま小便となって排出されてしまう。小便が甘くなり、体内では栄養が不足する一方、血管は残った過剰な糖分に侵略されて傷む。

ここから、この病気は、サイフォンあるいはパイプのようなものという意味のギリシャ語を語源として、糖尿病(diabetes)と言われるようになった。普通の人は膵臓からインスリンは十分に出るが、十分でないか全く出なくなった人が糖尿病患者になる。

日本の糖尿病患者は740万人。予備軍を入れると1620万人と推定されている。戦後の一時期の約30倍。爆発的な増え方。経済の急速な発展を続ける中国も似たような増え方だそうだ。

糖尿病になると今の医学では絶対治らない。目、腎臓、足の神経に合併症が起こり、視力障害、腎不全、足壊疽になる人が多くなる。田中角栄氏は合併症としての脳梗塞で死んだし、大平正芳氏は心筋梗塞で死んだ。いずれも糖尿病を軽んじた結果である。

現在では遺伝子工学の技術によって作られているインスリン製剤を医師の指示通りの注射を自分ですれば何も問題はないし、ある統計によれば注射を始めた患者の80%は「もっと早く注射を始めればよかった」と答えている。(「月刊糖尿病ライフ さかえ 2007年1月号23ページ」。

さてインスリン。Insulin 膵臓のランゲルハンス島B細胞でつくられるホルモンのひとつ。インシュリンともいう。体の各組織への血糖の取り込みを促進し、血糖を減らす。

1920年秋、カナダのオンタリオ州に住む若い一外科医、フレデリック・バンティングは、たまたま膵臓にまつわる1つの論文を読んでいた。

ある夜遅くフレデリック・バンティングは膵管を結紮することを考えついた。 (結紮=けっさつ※管をしばって内容物が通らないようにすること)。それは内分泌を分離する1つの方法になるかもしれない実験手段であった。

フレデリック・バンティングはその考えを携えて母校のトロント大学へ向かった。当時、そこには、炭水化物の権威として世界的に名の知れ渡ったマクラウド教授がいた。

最初マクラウド教授はフレデリック・バンティングの考えを信じていなかった。しかし、翌年夏、数週間だけ、研究室と実験用の犬をフレデリック・バンティングに貸した。

研究に必要な化学検査を行う、若い学生チャールズ・ベストをフレデリック・バンティングにつけると、マクラウド教授は休暇を楽しむためスコットランドへ行ってしまった。

フレデリック・バンティングとチャールズ・ベストは、膵管を結紮(けっさつ)した犬から作った膵臓の抽出物を用いて、糖尿病犬の血糖を下げ、その他の症状を取り除く事に成功した。

マクラウド教授が帰国した時、2人の研究者は興奮のさなかにあった。重い糖尿病のマージョリという犬が、彼らの作った抽出物のおかげで、その年の秋も生きていたのだ。

マージョリは約70日間、生きながらえた。これまで糖尿病犬といえば、膵切除後1、2週間後に死ぬのが常識であった。

1922年冬  フレデリック・バンティングとチャールズ・ベストは最初の論文を発表しようとしていた。さらに抽出物を人に試す準備も整えた。トロント総合病院の幼い少年、レナード・トンプソンがインスリン治療を受けた最初の糖尿病患者となった。彼の生命は奇跡的に助かった。

マクラウド教授は、研究室全体をインスリン研究にたずさわる体制に整えた。アメリカの製薬会社、イーライリリー社が市販用のインスリン生産を手助けすることになった。同時にトロント大学は糖尿病患者に販売するインスリンの品質管理をするため、生産過程の専売特許を取得した。

1923年になると、インスリンは事実上際限なく作れるようになり、数千人の患者にとってはまさに生命の素となっていた。

1923年の終わりに、ノーベル賞がインスリン発見の研究に授与された。受賞したのは、フレデリック・バンティングとマクラウド教授であった。

マクラウド教授が休暇中になされた研究にもかかわらず…。フレデリック・バンティングは賞金の半分をチャールズ・ベストと分かち合うと発表。一方マクラウド教授は生化学者コリップと分かち合うと発表。

インスリンは糖尿病の治療薬として利用されるが、口から入ると消化管で消化されてしまうため、注射薬として用いるしかない。アメリカでは鼻からの吸入もOKトイウニュースもある。現在、インスリン製剤は、遺伝子工学の技術によって作られている。

こうして発見されたインスリンは欧米では、すぐ、患者自身が注射で摂取できるようになったが、日本では「危険だ」という医者たちの主張によって60年も不可能だった。これで要らざる死者が多く出た。

日本の糖尿病患者たちは1日に1回は医者の門を叩き、驚くなかれ日に2度も医者に通わねばならない患者さえあった。欧米で危険でない物が日本ではどうして危険なのか。患者団体は何年にも亘って厚生省(当時)に陳情したが、日本医師会はクビを縦に振らなかった。

しかし厚生省が遂に負けた。昭和56(1981)年、外相2期のあと、厚相としては2度目の園田直(そのだすなお)が省令の改正を命じ、糖尿病患者のインスリン自己注射を許可した。欧米に遅れること60年であった。

許可の結果は彼の狙い通り、医療器材メーカーは自己注射用器材の開発を競って行い、ボールペンを少し太くした程度の小型注射器にほぼ20日分のインスリンを詰めるのに成功。携帯を可能とした。

また、その先に回転式で取り付ける使い捨ての針も次第に細くして行って、2005年には先が0・2ミリと言う世界一の細さにすることに成功した。これだと全くと言っていいほど痛くない。成功したのは東京下町の町工場である。

埼玉社会保険病院副院長丸山太郎氏は「インスリンが必要な患者は出来るだけ早く注射療法を開始するのが望ましい。すると膵臓のベータ細胞が再生する力が出てくる」と保証する。

「注射が痛くない」とは信じられない話ではないか。実は許可した厚生大臣園田直自身が若い頃からの糖尿病患者だったが、武道の合計段位約30段。猛者(もさ)と言うにふさわしい彼の泣き所は痛がり。

外国出張時は秘書官の私に注射させたが、注射が怖いものだから、その都度、大変な覚悟をするようだった。「ナベしゃん、ひと思いにやってくれ」と言って顔を背けたものだ。自己注射を許可したものの極細の針はまだ開発されてなく、多分0・5ミリはあった。痛かったはずだ。

園田氏はその3年後に死んだ。死因の腎不全は糖尿病の治療不完全の結果である。自己注射許可のための省令改正がせめて30年繰り上がっていたなら、園田氏は今も健在だったはずだ。2007.01.01

(Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation. All rights reserved.及びマイケル・ブリス著「インスリンの発見」朝日新聞社刊を参照)。
| - | 18:10 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







スポンサーサイト
| - | 18:10 | - | - | pookmark |







コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://kajikablog.jugem.jp/trackback/454120
トラックバック

CALENDAR

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< September 2019 >>

SEARCH

SELECTED ENTRIES

RECENT COMMENT

CATEGORIES

ARCHIVES

LINKS

PROFILE