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他山の石、安達謙蔵の悲運 古沢襄
不発に終わった橋本欣五郎ら陸軍佐官クラスのクーデター計画・十月事件を調べて資料集めをした私は、クーデター計画よりも当時の政界事情に興味を惹かれた。なかでも策士といわれた安達謙蔵が策に溺れて自滅したいきさつが面白い。

人によっては安達は選挙の神様、時勢をみる眼力に優れ、犬養毅より数等上の政治家と評価する向きもある。だが自己に対する過信から、あまりにも短兵急、直線的な策ゆえに失敗を重ねた。徳のなさ、やることに筋が通らないと批判され、周囲から人が離れている。どこぞの党首に似た人物がいる。

安達は熊本県人。元治元年(1864)に熊本藩士・安達二平の長男として生まれ、有名な済々黌の出身。朝鮮に渡り邦字新聞の「朝鮮時報」「漢城新報」を発行した朝鮮通で、日清戦争にも従軍記者として参加。李氏朝鮮の王妃・閔妃の殺害計画(乙未事変)に関与して投獄された暗い過去もある。

その後、政界に身を投じて1914年の総選挙で立憲同志会(のちの民政党)の選挙長として、改選前95議席を一躍147議席に増やして大勝、この時から”選挙の神様”の評判を得た。この功績で大隈内閣の外務参政官に登用されている。安達の経歴をみると早くから名が知られ、乙未事変の蹉跌があっても、トントン拍子で政界の表舞台に出たことが、かえって仇を為した気がする。

策士だった割に詰めが甘く、独断専行。民政党内で重きを為すにつれて、自信過剰がさらに強くなり、人の意見を聞かずに独走するようになって、それが命とりになっている。若槻礼次郎首相の下で内相となったが、若槻と意見が合わなくなると閣議に出なくなり、若槻内閣は「内務大臣らとの間に見解の相違が生じ・・・」と前代未聞の理由で民政党内閣が瓦解している。

その結果、誕生したのが犬養の政友会単独内閣。反対党の犬養にタダで政権を譲ってしまったのは、安達の不明といわれても仕方あるまい。自信過剰もここまでくれば、単なる自己中心主義といわれてしまう。一時は安達の民政党総裁、安達首相説もあったが、この一件以来、安達株が暴落している。誰とはいわないが、安達の悲運をもって他山の石とすべきではなかろうか。
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