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”のんきな父さん”町田忠治 古沢襄
岩手県の西和賀地方からみると秋田県は羨望の土地であった。秋田こまちの米はうまいし、秋田美人は日本一。昔は日本海側こそが表日本で北前船の寄港地でもあった。物流の流れがあることは、全国の情報がいち早く伝わることでもある。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟から脱藩して官軍側についたのも情報戦に秀でていたからである。

秋田の土崎湊は、秋田杉や米などの特産品の移出港として栄えた。また能代は米代川の舟運によってもたらされた金銀銅、材木、米などが北前船によって移出している。さらには海に突き出た男鹿半島は古くから船乗りたちの道しるべとなり、室町時代から船の出入りが頻繁だったという。戸賀を中心に入り江が「風待ち湊」とも呼ばれた。

その秋田県が県別衰退都市比率でトップという不名誉なランク付けになった。まさに「シンジラレナーイ」と言いたくなる。秋田出身の元外相秘書官・渡部亮次郎さんは「指導者に人を得なかった。県民全部が先を見通せなかった。役人上がりばかりに頼ろうとした罪である」と手厳しい。かつての秋田の先見性はどこに行ったのであろうか。

戦前の政治家だが漫画の”のんきな父さん”そっくりの町田忠治という人がいた。理想家肌の永井柳太郎と仲が悪いので有名だったが、民政党の総裁となり、阿部信行内閣の退陣に際して町田首班の下馬評もあった。並の政治家ではない。

永井柳太郎を評して「あれは天の星ばかり眺めている男で、足もとを忘れている」と嫌った。間に入った松村謙三が「永井は青年層に人気がある。党の看板だ。一党の総裁が永井のような人物を抱擁できないのは、あなたの名折れになる」と諫めたのだが、よけい永井に辛く当たったという。

町田は秋田市の生まれ。佐竹候に仕える豪族の四男。士族が路頭に迷う時代だったので、二度も養子に出されている。秋田中学を抜群の成績で卒業して、県の給費生に選ばれ大学予備門に入って、帝国大学法科大学撰科を卒業後、犬養毅の紹介で朝野新聞の論説記者となった。この頃の朝野新聞には犬養のほか尾崎行雄など錚々たる人物がいる。

犬養が木堂(ぼくどう)、尾崎が咢堂(がくどう)と称したが、町田も幾堂(きどう)を名乗って論陣を張った。政府の弾圧によって朝野新聞が身売りした後は、大隈重信の郵便報知新聞に犬養、尾崎とともに移ったが、この二人が政界に身を投じたので、町田が編集局長格になっている。東洋経済新報社の創立者でもある。

犬養、尾崎に触発されたのであろう、五十歳で政界に身を投じる大転身をした。秋田の選挙区からトップ当選。大隈内閣ができると、大隈の持論だった英国流の政務官制度を導入した。各省大臣に配した「勅任参政官」がそれだが、町田は農商務参政官に起用された。この時の大蔵参政官が浜口雄幸。

若槻礼次郎内閣で待望の農相として初入閣したが、町田農政について松村謙三は「歴代農相の中で最も功績があった一人」と激賞してやまない。最大の功績は米穀法の改正で「率制米価」を採用し、一定の枠内で米価を規制して、米の投機を押さえ込んだ。

岡田啓介内閣で副総理格の商工大臣になる。ただの”のんきな父さん”ではなかった。しかし齢五十歳で政界入りしたのは遅かった。宮中で陪食があった時に昭和天皇から「町田は幾歳か」とご下問があったのだが、ニコリともせず「吉良上野の邸に討ち入った時の堀部弥兵衛と同年でございます」と答えた。すでに七十六歳になっていた。
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