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切り貼り”岸信介伝” 古沢襄
最近、街にでると本屋に様々な岸信介伝が積んである。安倍首相が岸の孫ということから、便乗した岸信介伝なのだが、即席の切り貼り記事的な傾向が免れない。池田内閣当時にでた高坂正堯氏の「宰相吉田茂」に較べると薄っぺらで、安倍時代が終わると消えてしまう運命にあるのではないか。

岸信介という戦前、戦後を生きた政治家は、否定的評価にせよ肯定的評価にせよ掴みどころがない評伝を書きにくい部類の人物といえよう。様々なエピソードを残しているが、それをつなぎ合わせても岸信介の実像は浮かびあがらない。まして日米安保条約の改定を強行した権力主義者というステロタイプな切り口だけでは実像に迫ることができない。

同様に事情通の中には、田中・福田怨念対決の裏で、岸が竹下登と結んでいたとして、女婿の安倍晋太郎可愛さから何でもありの手練手管の政治家と評する向きもあるが、岸が政権の後継者に吉田学校の池田勇人を指名した事実を忘れている。岸は吉田の軽武装・経済重視路線とは違う外交右派であるのは紛れもない事実だが、経済・福祉政策では吉田・池田路線と大きな違いがない。

福田は違う。吉田・池田の経済主義の批判者であって田中角栄の高度経済成長政策と真っ向から対立している。福田の思想の根底には大蔵省主計局の抑制的な財政政策があって、それの後継者が小泉首相とみた方がいい。

岸は商工官僚だから必ずしも抑制的な財政政策主義者ではない。大蔵省では傍流の主税局出身者である池田の高度経済成長政策に対して、福田ほど反発をみせていない。反発があったのは、池田が内向けの経済主義に偏り、岸の眼からすれば外交が等閑にされたということであろう。

岸という政治家の実像を解くカギは\鐐阿遼州国経営の時代と二・二六事件に連座して処刑された思想家・北一輝に対する共感にあると思っている。だが、戦後の岸は、この二つのキイワードについて黙して語らなかった。晩年の岸はマスコミを遠避けて会おうとしていない。そこから様々な岸信介伝が氾濫し定説が固まり得ない事情が生まれた。

実弟の佐藤栄作についても同じことがいえる。岸以上に自らの政治を語らない寡黙な政治家であった。「政治家は活字を残すべきでない。政治家の任務は、著述や評論ではない」という信念の持ち主だったから、様々な佐藤内閣回想ものがでているが、核心にふれるものが見当たらない。それが沖縄返還交渉の真実をめぐって、今もって定説が見当たらない原因となっている。その意味では、この兄弟宰相は古き時代の政治家といっても良いのだろう。高坂正堯氏の「宰相吉田茂」に匹敵する「宰相岸信介」「宰相佐藤栄作」はでないと私は思う。

岸の満州国経営時代については大日向一郎氏(日経)が貴重な証言記録(政治記者の目と耳 第4集=平成11年)を書いた。安倍晋太郎(毎日)、清水二三夫(共同)と並んで岸派三羽烏といわれた大日向だったが、岸は大日向にも満州国経営時代は語らなかった。

その資料も乏しく、一緒に仕事をした人もほとんどが物故したため、具体的な中身をもった証言は皆無に近いのだが、岸の下僚として行動をともにした下島儀貞氏から証言を得ている。

<当時の日本の朝野の最大の関心時は北からのソ連の侵攻にどう対処するかにあった。ソ連の侵略的意図は帝政ロシア時代から一貫している。陸軍は日露戦争で勝った成果を、どのようにして持ち続けるかに腐心していた。

もっとも敏感に反応したのは中以下の軍部であった。彼らの目からすれば、このような危機に際して、財閥は国益よりも企業の利益、私利私欲を優先させていると映り、我慢できなかった。二・二六事件は反乱軍ということになったが、これを”義軍”と受けとった国民も多かった。

岸は社会主義者ではないが、このような中以下の陸軍将校の思想に共鳴し、行動に理解を持っていた。商工省時代から中以下の軍人と親交があり、頼りにされていた。軍部が満州国を独立させたあと直面した困難は、満州国の行政であった。軍人に産業政策や農業政策、財政、金融政策ができるわけがない。

岸は高橋幸順という先輩が満州国に派遣された時に椎名悦三郎、美濃部洋次、始関伊平といった商工省の逸材をつけてやっている。高橋幸順のあとは岸という現地からの要望がでたのは自然の成り行きといえる。

満州国の経営に当たった岸の基本思想はソ連の侵略に対抗する軍の戦略に、できるだけ便宜を図ることにあった。対ソ恐怖症といってよいほどソ連の一挙手、一投足に神経をとがらせていた軍としては、岸を信頼し、一切の行政を岸に任せて口出しをしていない。軍部と結託したなどというのは皮相の見解で、それぞれが日本の将来を考えた真剣な結果であった。>

下島証言は、岸賛美論・満州国肯定論だから100%われわれを納得させるものではないが、戦前の岸の思想を解き明かすナマの発言として貴重なものである。

大日向は岸から「私がこれまで会った人の中で、いちばん衝撃を受けたのは北一輝であった。あの眼差しには圧倒された。北一輝の国家改造法案要綱は、当時非合法の出版物だったが、私は、読んだあと全文を筆写した」という証言を引き出している。

私も岸から同じような言葉を聞いている。池田内閣の末期から佐藤内閣の初期にかけて岸の南平台私邸や御殿場の別邸に足繁く通って、岸の懐に入り込んだのも、私の妻が北一輝の血縁だった縁による。

北一輝の思想についても定説が定まっていない。二・二六事件の首魁であって極右という説もあれば、革新的な左翼思想家という評価も少なくない。単なるデマゴーグと片づける向きもある。

しかし岸は北一輝の思想の中に革新性を見出して共感を持ったのは事実である。私は岸の本質は外交右派、内政左派と断じているが、これとて岸の実像と言い切る自信はない。ましてや岸と心から話し合ったことがない者が、切り貼りの岸信介伝を平然と書き流す風潮には首を傾げたくなる。それが一時的に一人歩きをしても、時代に波に洗われてうたかたの如く消えていくのでなかろうか。
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