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松岡洋右に振り回された近衛文麿 古沢襄
海洋国家である日本は太平洋に眼を向けるか、日本海や東支那海に眼を向けるかで外交戦略が違ってくる。もちろん太平洋も日本海も重要なのだから、どちらか一方に偏った外交戦略などはあり得ない。問題はウエートの置き方、優先順位の付け方になる。

太平洋に眼を向けるとは、とりもなおさず日米関係の一語に尽きる。日本海に眼を向けるとは大陸国家とどう向き合うかということになる。古来、日本は大陸国家と向き合う道を歩んできてきている。日本海は日本の表玄関であった。

明治維新以降、日本は帝政ロシアの南下政策と厳しく向き合っている。朝鮮併合、満州国の建国は、ロシアと対峙する国策から生じている。その一方で四億の民を有した支那に対しては、ヨーロッパ列強の影響力を排して、日本が支那市場を独占する野望を抱いて侵略した。

アジアにおける第二次世界大戦は、中華民国を相手にした支那事変、太平洋の覇権をかけた日米戦争、そして日ソ中立条約を破棄して侵攻してきたソ連との戦争という三つの顔を有している。

戦前の宰相でもっとも人気が高かったのは近衛文麿首相であろう。昭和十二年六月一日に宮中に参内して昭和天皇の大命を拝受し、四十六歳の青年宰相が誕生している。軍部も右翼も、政党も、ファッショ反対の知識人も近衛の清新さ、知性、革新性を歓迎した。徳富蘇峰は「近衛内閣成立は、積雲晴れて、青天白日を望む心地を国民に与えた」と手放しで激賞している。

六月四日の組閣後間もない七月七日夜、蘆溝橋事件が起こった。北京西南郊外の永定河にかかる蘆溝橋で日支両軍が衝突、八月九日には上海で大山勇夫海軍中尉が射殺されて戦火は上海に飛び火する。九月二日の閣議で”支那事変”の呼称を決定した。

支那全土に広がった日中戦争を日本側は”戦争”と呼ばない。宣戦布告なき”事変”という立場をとっている。近衛は”事変の不拡大”を考えている。近衛ブレーンである「昭和研究会」のメンバーが、不拡大を強く進言していた。具体的には南京を目指している中支那派遣軍(松井石根司令官)に対して南京を包囲するにとどめて、蒋介石と和平交渉をすることであった。

当時は、これを「ビスマルク的転換」と称している。普墺戦争でプロイセン軍のビスマルクが、ウイーン陥落を目前にしながら、包囲するにとどめて入城せず、オ−ストリアと和平を結んでいる。

しかし近衛は閣内の強硬派であった杉山元陸相らを説得する自信に欠けていた。昭和研究会は蒋介石との和平条件として中国からの完全撤兵を提言している。この機会を逃せば事変は支那全土に広がると後藤隆之助氏が進言したのだが「今の自分には、もはやそうする力がない」と近衛は力なく答えている。

近衛家は藤原鎌足を祖とする五摂家の筆頭。公家出身の近衛には本当の意味での強さがない。温室育ちだから、雑草の強さに欠けている。優柔不断で嫌気がさせば投げ出す癖がある。殿様育ちの弱さというべきであろう。

蘆溝橋事件という日中戦争につながる大きな事件に際して、宰相である近衛が生命をかけて事変拡大を防いでいたら、日米戦争もソ連の軍事介入も防げたであろう。国民的な人気があって、昭和天皇の信頼が厚い近衛だったから、軍部も右翼も押さえうるエース・カードであった筈だ。だが何もしていない。

日本人が日中戦争の責任を追及するなら近衛を筆頭にあげるべきだと、私は思っている。不幸な時期にもっとも相応しくない宰相を選んでしまったという思いだけが残る。大陸に手を出した日本は、必ず失敗しているという歴史観がない近衛の事変不拡大策は、一種の言葉の遊びで終わった。昭和研究会の提言がありながら、何もしなかったのは、国民に対する大罪だったと思う。

日米戦争でも近衛の出番があった。太平洋国家の意識があったか、どうかは分からぬが、長男の文隆を米国留学させている。その一方で第二次近衛内閣は、日独伊三国軍事同盟の推進者だった松岡洋右を外相に起用している。三国同盟に最後まで反対していたのは元老・西園寺公望。

第二次近衛内閣は昭和十五年七月二十二日に成立している。最大の外交課題は日米交渉であった。近衛は三国同盟を締結して、対米交渉に臨んだ。軍事同盟の圧力によって米国の譲歩をかちとり、平和協定を結んで、日中和平をまとめる机上プランを立てた。

昭和十六年四月十六日にハル国務長官と野村吉三郎駐米大使との間でハル四原則の日米諒解案がまとまり、五月にもホノルルで近衛とルーズベルト大統領による日米首脳会談の打電が野村大使から外務省にもたらされている。四月十八日、大橋忠一外務次官が近衛首相に四原則の日米諒解案を報告、近衛は政府統帥部連絡会議を招集している。

この会議には東条英機陸相も出席し、この日米諒解案が成立すれば、支那事変の解決にもつながり、日米戦争も回避できると全員が賛成している。折から松岡外相はドイツ、イタリア訪問から帰国の途にあった。

松岡の帰国を待って最終決定すると近衛は決め、松岡の帰国を急がせた。日米諒解案を聞いた松岡は「独伊の友邦国に対する信義にもとる」と猛反対。松岡に振り回された近衛は為すすべなく一ヶ月を空費した。近衛は松岡を呼んで説得したり、諒解案の手直しを試みたりしているが、修正案は米国が受け入れるものではなかった。

第二次近衛内閣は七月十六日、閣内不統一で総辞職。嫌気がさせば投げ出す近衛の悪い癖がでたといえば、それまでだが、昭和天皇は近衛に希望を託して、十七日に近衛に内閣再組織の大命を下している。第三次近衛内閣では松岡の代わりに海軍の豊田貞次郎が起用された。

日米交渉は細い糸でわずかに繋がっていたが、日本軍の仏印南部進駐で制裁措置にでた米国の石油輸出禁止によって糸が切れた。近衛はここにきてルーズベルトにメッセージを送り、太平洋上で日米首脳会談を開く提案をしているが、不発に終わっている。万策尽きた近衛は三ヶ月で内閣を投げ出した。あとは戦争の破滅的道しか残されていない。

今年度の新聞協会賞を受賞した日経新聞の「富田メモ」は、宮内庁長官だった富田朝彦氏が遺したメモなのだが、1988年4月28日付の手帳に「A級戦犯が合祀され その上松岡、白鳥までもが・・・」と昭和天皇の言葉が明らかにされた。松岡外相に対する不快感を隠していない。

東条陸相まで賛成した日米諒解案を葬り去った松岡の戦争責任は許し難いのだが、「陸軍や海軍がどうでもそんな弱い話には自分は乗れない」と松岡は言い放ち、その松岡を押し切ることが近衛はできなかった。松岡が近衛に反対なら外相を罷免すればこと足りた。総辞職する必要はサラサラない。

日米戦争を危惧した昭和天皇、天皇の軍隊だった陸軍、海軍が近衛を支えていたのだから松岡ごときに気を使う必要はなかった筈である。近衛は、この時に外相を兼務していた。外遊中の松岡外相の帰国を待って日本政府の最終態度を決めるように近衛に進言した大橋外務次官は、松岡によって次官に抜擢された人物である。松岡に忠義立てしたのであろう。

当時の外務省は海軍出身の野村駐米大使が対米交渉を担ったことに、官僚特有の不快感があったという。敗戦後は軍部に対する非難だけがクローズアップされているが、子細に史実を検証すると軍部のみならず外務省の責任も見逃すわけにはいかない。近衛は敗戦の昭和二十年十一月二日に戦犯容疑で逮捕令が出るや、巣鴨拘置所に入所する前夜、青酸カリで服毒自殺した。遺書はGHQに没収されたが「自分は多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」とあった。
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