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寂れ行く本所・向島 渡部亮次郎
同じ「川向こう」でも江東区と墨田区では大いに違うものがある。区画整理が殆ど完成している江東区、全くされてなくて消防車が入れない墨田区。人口が爆発している江東区、減って且つ老齢化している墨田区。

向島の16人しか入れない,夫婦でやっているレストランに通い続けているうちにこの差を考え続けている。おそらく、政治が主導権を発揮しないから墨田区は将来を無くしたのではないか。たとえば区画整理。

江東区も墨田区も関東大震災と東京大爆撃で、2度も壊滅した。推測でしかないが江東区長は被災者を相手に大決断を下して、区画整理を進めた。おそらくそこには強引な決定もあったろう。しかし墨田区は・・・。それでも今後も墨田区に住み続けたいという方は、8割近くを占めている。義姉夫婦もそうだ。

墨田区は、昭和22(1947)年3月15日に、北部区域の向島区と南部区域の本所区が合併して誕生した。そのときに、新しい区の名前として「墨田区」と名付けた。それは、昔から広く人々に親しまれてきた隅田川堤の通称“墨堤”の呼び名の「墨」からと、“隅田川”の名の「田」からの2字を選んで名付けられたものだった。

地理的には、東京都の東部、江東デルタ地帯の一部を占めている。西は隅田川を鋏み中央区・台東区・荒川区に、北から東は綾瀬川・荒川・中川を境として足立区・葛飾区・江戸川区に、さらに東から南は北十間川・横十間川・竪川を境として、一部は地続きで江東区に接している。

区の形は南北にやや長く、東西約5キロメートル、南北約6キロメートルで、面積は13.75平方キロメートルあり、東京都23区中17番目の広さである。

地形は、海面からの高さ最高4メートル、最低マイナス1.2メートルの平たんな低地で、地質はすべて砂と粘土まじりの沖積層。

人類の歴史が始まった紀元前6千年ごろは、まだ墨田は海の底だった。しかし、長い年月をかけて東京湾北に入江がひきはじめ、さらに秩父連峰、三国山脈、日光連山などを水源とする数条の河川が運んだ土砂が、その河口に堆積して、土地が生まれた証拠だ。
両国国技館の地盤から出土した壺は、古墳時代の完形の遺物であり、出土地周辺の居住域を推測させる。

9世紀ごろになると、河川の流路もほぼ定まり、その1つが「すみだ川」と呼ばれるようになった。平安時代の古典・伊勢物語にある有名な故事のくだりで「すみだ川…」の名が記され、船の上の在原業平(ありわらのなりひら)が、「名にしおはば、いざこと問はむ都鳥」と詠んだとされている。地名に業平と言問橋が残っている所以である。

古くから陸地化していた北部の堅い洲周辺は、武蔵国と下総国を結ぶ渡河地点に発展したが、北部の向島は12世紀に、源氏隷下の葛西氏と江戸氏に向島地域を支配された農村だった。

その後、戦乱に巻き込まれながらも、16世紀に小田原の北条氏が勢力を得るとその家臣の領地として開発が進み、農村地帯は発展した。

湿地帯(本所)の南部開発は、明暦3年(1657年)の振袖火事がきっかけだった。江戸はほぼ全滅、10万人余りの命が奪われ、幕府は牛嶋南部に焼死者を葬り、回向院を建てた。

同時に幕府は防火対策中心の都市復興に着手し、万治2年(1659年)には隅田川に両国橋(当初名は大橋)を架け、市中に防火堤や火除地を設けた。

この防火計画に従って、武家屋敷などの移転先に選ばれたのが現在の墨田区南部すなわち本所。本所奉行を中心に、竪川・大横川・南北割下水の開鑿や区画整理を進めた結果、武家屋敷を主とする市街となり、江戸の一部となった。
元禄15(1702)年、回向院脇の吉良邸へ赤穂浪士が討ち入り、主君の仇を報じた事件は、一大センセーションを巻き起こした。

一方、北部は農村地帯のまま、江戸市民の食糧供給地として歩み続けていた。いまでも時代を越えて全国の人々に親しまれている墨堤の桜、隅田川の花火、両国の相撲は、この時期に誕生したもの。

江戸3大出水をはじめ水害に苦しんだ墨田だが、文化・文政期には格好の行楽地として歌舞伎や落語の舞台になっていた。歓楽街の素地が出来た。

近代日本を形成した明治時代、すみだも新しい首都東京の一角として、新たな役割を果たすようになる。明治11(1878)年、南部は本所区となり、北部(向島)は一旦は都下南葛飾郡に編入された。

当時の生産品といえば、南部では瓦、髪結具、ろうそくなどの日用品、北部では農作物だった。それが、河川に囲まれた好適な立地条件や労働事情で、次第に工業地帯化する。
特に、紡績、精密工業、石けん、製靴が盛んで、大正期には、輸出向けとして、玩具製造、ゴム工業などが起こり、発展した。鐘ケ淵紡績、ライオン石鹸、時計の精工舎などの名が残っている。

一方、交通面では明治27年(1894年)はじめて現在の総武線が乗り入れるなど相次いで交通網が開けている。

しかし大正12年(1923年)の関東大震災で、本所区は9割余りが焼失し、焼死者4万8千人と、東京市全体の8割強に達する惨状となった。やがて復興し、都市化が進んだ北部には、昭和7年(1932年)、向島区が成立したが、第2次世界大戦の戦火で再び墨田の7割が廃きょと化し、6万3千人の死傷者と30万人近い罹災者を出した。

第2次世界大戦が終わって間もない昭和22(1947)年、本所・向島の両区が合併して墨田区が誕生。当時の人口はわずかに14万人だったが、やがて焼け跡にも住宅や工場が建ち、産業の街として復興してきた。

同28(1953)年には工場数が戦前を上回り、商業面でも飛躍を遂げ、30年代の高度成長期を迎えます。急速な経済発展の中で、工場には新技術が導入され、大型店舗やスーパーも進出、道路などの生活環境も急速に整備された。

しかし人口は、昭和38年(1963年)の326,000人をピークに減少傾向をたどり、高齢化が進んでいる。2006年8月現在229、099人。50年間に約10万人も減っている。若夫婦は隣江東区の高層マンションンに引っ越している? 第2東京タワーの誘致には成功したが、これに合わせた再開発をどれだけ進められるか。

区の公式サイトは以下のように言う。
<区はこの間、まず学校などの教育施設の充実から区民生活向上のための施設や環境改善に取りかかり、福祉施設や文化・産業施設などの増設、下水の暗きょ化や道路・護岸の整備、公園の増設、緑化の推進などを着々と行ってきました。(防火対策には触れようもない?)

たび重なる災害にもめげず今日のすみだを築いてきた人々。明日の墨田区を築き、さらに飛躍させることは、私たちに与えられた課題だといえます。

“川の手”という言葉が生まれています。“下町”という表現の是非が問われ、山の手に対する言葉として登場したものです。そんなとき、必ずクローズアップされるすみだ。

その長い歴史のなかで培われてきたものをどう呼ぶかは別として、確かにすみだには、まちなみにも人々の気風にも、情緒豊かな心が息づいています。産業のまちにあって、隅田川花火や国技館の相撲を誇りとするすみだの人々。今後も墨田区に住み続けたいという方は8割近くを占めています。>2006.09.05
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