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迎賓館のトマトと胡瓜 渡部亮次郎
モスクワには政府の迎賓館が五棟もあった。今もそうだろう。レーニンが丘と呼ばれるところにあった。そこの第一号館に滞在を許されたのはいいが、秘書官は事務方の佐藤行雄(後に国連大使、現国際問題研究所理事長)と私(政務)の2人なのにベッドはダブルのが一つしかなかった。

バカにしてるのかからかっているのか、とにかく歓迎されてないことは事実のようだった。昭和53年1月初旬。モスクワは9時を過ぎなければ夜が明けなかった。

一号迎賓館は木造2階建て。深い雪中にどっぷりと囲まれ、外を警備の兵の歩き回る靴の音が、深々とする寒さの中にキュツキュツと鳴っていた。1978年。米ソ間はまだ冷たい戦争を展開している時期。
書記長はブレジネフ、首相はコスイギン。私はスパイ小説に凝っていた頃だから、共産圏に入った以上、いつ、不当逮捕されるか分かったものじゃないとおののいていた。

迎賓館には専属の女性が通ってきて食事の世話をしてくれた。お尻の大きい背の高くないブスでもない中年で、犬歯に金を被せていた。あれはKGB(秘密警察)の監視員だからな、と大臣。第2次大戦、泥の戦場にあること11年、歴戦の勇士も緊張気味か。

ところで、食事は毎朝、トマトと胡瓜(きゅうり)にはがっかりした。こっちはウサギじゃないぞと憤慨した。ところが「いま一月でしょう。生鮮野菜なんて無いんですよ。これは温室で石油を燃やして育てたものなんです。それにこのキャビアの豊富なこと、大歓迎の意味なんです」と解説する欧亜局長は宮沢喜一の末弟だ。

そうか、生鮮野菜のないモスクワだからと、在留邦人の土産に日航機に白菜を5トンも積んだら運賃80万円と言われたのだっけ。日本でも今でこそトマトと胡瓜は年がら年中あるが、昔はこうだった。穴の開いた食パンにキャビアをどっさり載せて食べたが、すぐ飽きた。

クレムリン(ソ連政府機関のある城砦)に行くことになった。雪がちらちら降っている。零下15度ぐらい。帽子を被らないと頭が春になったら融ける、と現地のひとが脅かすから、わざわざ大臣が三越で作って呉れたアストラカン製の奴をかぶる。靴もまた中に毛皮を張った特性のを履く。だが寒いのは玄関から車へ乗るまでの30秒ぐらい。後は防寒具、不要じゃないか。

クレムリン。スパイ小説の読みすぎで、とても怖いところだ。ほら、見ろ、広場に農奴を何百人も並ばせているではないか。破れかけたオーバー、穴の開いた毛布の靴、目の淵は男も女も真っ赤。トラホームだろう。この雪空に何で列をつくっているのか。なるほど、これがトルストイのいう農奴か。

「いや秘書官、違います、この人たちはモソクワ市民です。一生に一度、クレムリンを見学に来たのです」と大使館員。これがモスクワ市民?この貧しさが社会主義? 気の早い元記者は「この国は長いことないぜ」と結論付けた。

人々の顔色だけを見て選挙情勢を当てる癖からすればこれは当たった。事実、1991年8月にソビエト共産党が解党したわけだから。13年掛かったが、逆に言えば13年前にソビエト崩壊を予想したわけだが、これ以上言うと厭味になる。

ソビエトとの用事は日ソ定期外相会議出席のためであった。それに付随してコスイギン首相表敬があって、わたしもコスイギン首相に握手を賜ったわけだが、なぜかその手はかつて上海で握ったいわゆる四人組の張春橋の感触にそっくりだった。なんとも柔らかい手。

グロムイコ外相との会談では北方四島の返還問題が主要問題だった。必ずや条約案を突きつけてくるから、我が方は間髪を入れず対案を突きつけよう、と大臣は事前に指示。

「しかし、対案の提示は検討して、後日と言うのが外交儀礼かと思いますが」と局長が素人大臣を諭すように言ったが、こういうときは君、剣道で言えば間合いが決め手だよ、と大臣は斬り返した。会談はそれで勝負あった、のだった。日本の態度と言うものがいやが上にも明確に報道される結果になったからである。

余談だが、この素人らしいやり方は八ヵ月後、北京の人民大会堂に於ける日中平和友好条約の締結交渉でも発揮された。黄華外相が会談冒頭、中国側の基本的態度の表明を始め、日本がいかに中国に損害を与えたか、とまさに滔々と述べようとした時に、わが大臣は突然「待った」と叫んで遮った。

「それをいったら纏まるものも纏まらない。日中2千年の歴史に比べれば、途中の不幸な何十年間など瞼の一瞬きに過ぎない」とやったものだから、日中双方が唖然となった。

相手国の代表の公式発言を遮るという失礼、日本の侵略が瞼の一瞬きという荒っぽさ。しかし交渉はこれで日本側ペースにがらりと変わった。歴史に間合いの大切さを学ぶ思いだった。

当時の重光大使(外相重光の甥)は先立って準備のため一時帰国していた。大使というものは大変な仕事だなと思っていたら、なるほど、明日はグロムイコ外相らソビエト側関係者を招いて「すき焼きパーテイーを大使館でやる、神戸牛一頭分を買って帰ったんだ」という。

なるほど。当日、グロムイコが生卵や甘辛い牛肉を果たして食うや食わずや、元記者は鵜の目鷹の目で横睨みしていたが、グロムイコは平然と箸を使っていた。

当時の日本大使館はソビエト側の提供を受けたもの。当然、盗聴器がいたるところに付けられている、と言うので、大使館での打ち合わせは部屋の中に置かれた大きな箱の中に入って行われた。

しかも中では水の流れる音を流して盗聴を2重に防止していた。今度の新しい大使館は日本企業の施工だから、ロシア側はどうやって盗聴器を付けるだろうか。

この分野になると、人間性善説の日本人は赤子に等しいから、やられるだろう。映画「ゾルゲ」を観るまでもない。そういえば昭和30年代、ブレジネフとやりあった河野一郎は盗聴にこりて、打ち合わせの総てを散歩しながらやったものだ、と言っていた。

ソビエト崩壊後、東京・狸穴(まみあな)のソ連大使館からは大量の館員が余剰人員として放り出された。ロシア人で無い者が大半だったようだが、スパイ関係も相当あったらしい。しかもそうした人たちは殆ど東京に残ってなにやらビジネスをこなしている。

モスクワの迎賓館を去る朝、KGBの彼女に残ったトイレット・ペーパーをあげたら、はじめてにっこり笑った。紙の質こそは文化のバロメーターと聞いていたが、モスクワの迎賓館のそれにはボールペンで字が書けた。
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