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作家・吉村昭さんの訃報 渡部亮次郎
<「戦艦武蔵」や「関東大震災」などの記録文学から「長英逃亡」「ポーツマスの旗」などの歴史小説まで人間心理の奥底を描く数々の秀作で知られる作家の吉村昭(よしむら・あきら)さんが7月31日午前2時38分、すい臓がんのため東京都内の自宅で死去した。79歳。自宅は非公表。後日、「お別れの会」を開く。>毎日新聞1日。

吉村さんに初めてお会いしたのは「ポーツマスの旗」を書くために、日露講和会議の現場となったアメリカのポーツマス市の現場を訪れたい、と園田直外務大臣(故人)を外務省に訪ねて来られた時。新潮社出版部長の新田さんが同道された。

個人的に吉村さんの大ファンだったから大臣の命令ももどかしく、秘書官の私は駐米大使の東郷文彦さんに、便宜供与要請の大臣発公電を発出した。このことは同書の単行本のあとがきに出てくる。

<学習院高等科時代、肺結核のため死と向き合ったことで文学を志し、学習院大で同人誌に参加。後に、同人仲間だった作家の津村節子さんと結婚した。大学を中退後、作家の丹羽文雄さんが主宰する「文学者」に小説を発表した。

昭和41年、若者の集団自殺を題材にした「星への旅」で太宰治賞を受賞。同時に、硬質な筆遣いで建造から沈没までを描いた「戦艦武蔵」を発表、注目を集めた。

48年には同作や「関東大震災」などのドキュメンタリー作品で菊池寛賞を受賞。その後も緻密(ちみつ)な取材と筆力で、記録文学などに独自の境地を開拓した。

54年「ふぉん・しいほるとの娘」で吉川英治文学賞、60年「破獄」で芸術選奨文部大臣賞と読売文学賞をダブル受賞。平成9年、日本芸術院会員。

このほか著書に、弟の闘病と周囲の看病を描いた「冷い夏、熱い夏」「天狗(てんぐ)争乱」「高熱隧道(ずいどう)」「ポーツマスの旗」など多数。産経新聞では昭和50年に「漂流」、平成元−2年に「白い航跡」の2作の小説を連載した。

また短編「闇にひらめく」は、カンヌ国際映画祭最高賞パルムドールを受賞した「うなぎ」の原作。>(Sankei Web 08/02 00:02)

吉村さんの作品は殆ど読んでいるが、産経新聞に連載された「白い航跡」(講談社文庫)は慈恵医科大学の創立者高木兼寛の伝記。殆ど日本人しか罹らなかった脚気対策で日本を救った功績を顕したものである。

<明治政府の富国強兵策による軍隊の増強とともに、脚気は兵営に急速に増加し、明治初年には陸軍で兵士の5分の1から3分の1がこれを発症し、日清・日露の戦時には前線将兵のほぼ4分の1が脚気となり、それは総傷病者数の2分の1というありさまであった。

脚気の病因については、当時なお中毒説・伝染説・栄養障害説がこもごも論ぜられ、治療のきめ手を欠いていたが、イギリスの衛生学を学んできた海軍の高木兼寛は、いちはやく脚気対策の重点を食に置き、兵食改良に着手し、海軍では兵食を米麦混食にしてから脚気は急速に減少した。立川 昭二>(平凡社 世界大百科事典)

日露戦争のわが方兵卒には農家の次三男が徴兵された。秋田県八郎潟沿岸の我が家からも父方の祖父がラッパ手として参戦し、無事に帰還した。戦場の惨状は一切、口にしなかったが、孫たる我々には「ラッパを吹くな、肺を悪くする」と遺言した。

それはともかく、脚気と日露戦争について吉村さんの受けたショックは大きかった。

「日露戦争で出動した陸軍の総人員は119万人以上に上り、戦死者は約47,000名であった。傷病者は352,700余名で、そのうち脚気患者が実に211,600余名にも達していた。傷病者のうち死亡した者は37,200余名であったが、脚気で死んだ者は27,800余名という『古来東西ノ戦役中殆ト類例ヲ見サル』戦慄すべき数だった」

< ビタミン B1欠乏症の症状としては (1)手足のしびれ感、知覚異常下肢の重感、全身畏怠感、足のつま先が上がらなくなり、つまずいて転びやすい、運動麻痺のための歩行困難などの神経症状 (2)心悸亢進、息切れ、胸部圧迫感、低血圧、とくに最低血圧の低下、下肢や顔面の浮腫(むくみ)、頻脈などの循環器症状、(3)食欲不振、胃部膨満感、吐き気などの消化器症状などがみられる。

とくに循環器症状は俗に〈心臓脚気〉とよばれているが、ひどくなると心臓に肥大が起こり(右心肥大)、心音は心尖部で第1音が不純となり、肺動脈弁口での第2音が亢進するようになる。

心臓の肥大が顕著になり脈拍数が著しく増加するようになると、身体運動がわずか増加しても、それに対応して心臓の拍出量を増すことができず、急に胸苦しくなり急性心力衰弱の状態すなわち〈脚気衝心〉とよばれる状態となり、死亡する。

脚気は江戸時代の元禄〜享保年間(17世紀末〜18世紀初め)に江戸で大流行した。この年代は日本人の米食がそれまでの玄米または半つき米から精白度の高い白米に移行した時期と一致している。

また寛政年間(1789‐1801)には京都、文化年間(1804‐18)には大坂で流行した記録がみられ、〈江戸煩い〉あるいは〈大坂腫れ〉などとよばれた。明治になると都市人口の激増や貧困層の増大につれ、食生活の低下とくに青年層における栄養の相対的低下が著しくなり,脚気の急増を招くことになった。(同)

海軍軍医総監の高木は留学した英国での経験から、脚気は栄養の欠陥と睨み艦内の将兵にはパン(麦)と牛・豚肉を与えたところ、患者は出なくなった。ところが後の文豪森鴎外が森林太郎として軍医総監を勤める陸軍では栄養説を否定し白米を只で食べさせた。

兵隊たちは農家の出身とはいえ、現代と違って小作制度の下では白米など、盆と正月以外は食ったことがない。殆ど地代として地主に納入するからである。しかも陸軍では副食物は各自好きなものを食えるよう現金を支給した。兵たちはそれを節約し、貧しい実家に仕送りした。白米に塩だけの食事では脚気にならないほうがおかしい。

明治天皇の皇后陛下が脚気になられて高木が宮城に招かれた。「理由はまだ分りませんが、麦(パン)と肉類を摂取すれば効果的かと・・・」陛下は間もなく全快された。高木は4度も陪食を賜ったが森は1度も無かった。

よせばいいのに森はあらゆる場所で脚気黴菌説を唱えるだけでなく高木を非難した。後世、脚気はビタミンB1欠乏症と分り、それらは麦や豚肉に多く含まれていることが証明された。

森鴎外は遺言で、墓には肩書きをつけるな、天皇からの沙汰は拝辞しろと言った。文学的にこの理由は謎とされているらしいが、医学の方面から見ると当然過ぎるほど当然である。森は自らは鴎外としてではなく医者の林太郎として死んだのだ。

日露戦争ラッパ手の孫たる私は中学3年の夏、心臓脚気で倒れた。野球の疲れを早く回復させようと砂糖を毎日、大量に舐めた。ところが砂糖の消化には大量のビタミンB1が必要なのだから脚気に成るのは当然だった。

無くなったと思われている脚気だが、甘い清涼飲料水の飲みすぎから若い層に脚気が増えている。医者も脚気を知らなくてあわてていると言う話をどこかで聞いた。2006・08・02
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