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壬申の乱と古事記 古沢襄
女系天皇論議で騒がしかった時に「古事記」を読んでいた。古事記は上中下三巻からなっている。私は、神々の夜明けと黄昏の壮大な叙事詩ともいえる上巻を耽読している。中巻は、初代・神武天皇の東征に始まり第十五代・応神天皇まで、下巻は第十六代・仁徳天皇から第三十三代・推古天皇で終わっている。また筆録した太安万侶の序文がついている。今度、初めて序文と下巻を読んでみた。

皇室を崇拝する人たちは「日本書紀」を重んじる。それは日本書紀が皇室の正史の扱いを受けてきたからであろう。古事記は第四十三代・元明天皇の和銅五年(712)に作られた。それから八年後、第四十四代・元正天皇の養老四年(720)に日本書紀が作られている。

朝廷が編纂した歴史書を「国史」というが、聖徳太子と蘇我馬子が協力して、はじめて「天皇紀」「国紀」が作られた。だが、蘇我氏の滅亡とともに灰燼に帰して、今は伝わっていない。聖徳太子が摂政の晩年のことで、口伝として残ったものが、古事記の原型になっている説、あるいは漢文なので官撰・日本書紀の前駆的事業だったという説もある。

太安万侶は「第四十代・天武天皇は、諸家の承け伝えている帝紀(皇室の系譜)と本辞(神話や伝説など)は、いろいろと偽りも多く、真実とちがう部分もある。故に帝紀を書物としるし、後世に伝えると仰せられた」と序文に書いている。天武天皇の言葉は「偽りを削り、実(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流へん(つたえん)と欲ふ(おもう)」と厳しい。

この天武天皇については註釈の必要がある。それは古事記の編纂にも関係してくる。戦前のことになるが、昭和十一年二月二十六日に陸軍の青年将校が大規模な軍事行動を起こした二・二六事件に際して、昭和天皇の皇弟である秩父宮が青年将校たちに理解を示しているという風説が宮中に流れたことがある。

秩父宮は皇弟でありながら、陸軍の一将校として一般社会に身を置き、腐敗した政治や財界のゆがみを見ている。度々参内して昭和天皇に天皇親政による昭和維新に必要性を訴えたという。急進的な改革論に傾く秩父宮と、これに慎重な昭和天皇の間には徐々に乖離が生じている。

二・二六事件の後、三月のことになるが、昭和天皇は侍従武官長になった宇佐美興屋中将に対して「壬申の乱、というのを知っているだろう」と質問している。迂闊にも宇佐美は、壬申の乱を知らなかった。驚いた昭和天皇は「すぐ勉強するように・・・」と命じた。秩父宮の行動が陸軍内部で広がり、壬申の乱の再現となることを、昭和天皇は怖れたといわれている。

壬申の乱は、第三十八代・天智天皇没後、皇弟の大海人(おおあま)大兄と長男の大友皇子が、皇位継承をめぐり争った内乱。古代史上はじめて経験する最大の政治的・社会的内乱となった。この内乱は大海人大兄が大友皇子を滅ぼして、天武天皇となることで決着する。

だが、皇統系譜では、天智天皇と天武天皇の間に第三十九代・弘文天皇が存在している。この弘文天皇は滅ぼされた大友皇子なのだから複雑怪奇。「壬申紀」には天智天皇が没後、天武天皇が即位するまでの半年間は、大友皇子が即位したことも、大海人大兄が即位したことも記載がなく、空位の状況のまま、内乱が続いたことを示している。つまり第三十九代は架空の天皇だということになる。

大友皇子の天皇即位論・非即位論は、江戸時代に水戸の徳川光圀が「大日本史」で、「大友天皇紀」を著し皇統に立てた。一方、本居宣長らは即位のなかったことを唱え、学者の間では活発に議論されるようになった。現在でも決着がついていない。

興味があるのは、天武天皇は在位十四年で亡くなり、皇后が即位して第四十一代持統天皇となるのだが、この女性は天智天皇の長女、二十四歳で滅ぼされた大友皇子の実姉に当たる。叔父の天武天皇に嫁したことになる。持統天皇は仏教の保護興隆に努めて、推古天皇の時代に四十六寺だった寺院が五百四十五寺に達している。

太安万侶が古事記を編纂して、献上した元明天皇についても触れる必要がある。この女帝も、実は天智天皇の娘、次女に当たる。持統天皇とは姉・妹の関係。叔父・天武天皇から託された古事記を作った因縁もさることながら、壬申の乱の関係者が彩なす人間模様が古事記に投影されている。日本書紀が文飾に囚われて、誇張が多く、価値を損じているのに比較すると、古事記が生々しい記述に満ちているのは、このような背景があるからでないか。

序文に戻る。「時に舎人あり。稗田阿礼と申し、二十八歳。生来聡明で、見たこと聞いたことをよくおぼえて忘れない。天武天皇は、この阿礼に命じられ、帝紀、旧辞(本辞)を誦み習わせた」とある。古事記が生まれた背後では、天武天皇の周到な準備があったと思う。それは、没後も天武天皇系が天智天皇系に対して主導権を持つことであった。

さらに「上古の言葉やその意味は素朴であるので、漢字で表現するのは難しく、訓(くん)で記すと、漢字の意味と古語の意味が一致しない。音(おん)で書き連ねると、文章が長々しくなる。よって、ある時は音・訓を交え、ある時はすべて訓を用いて書くことにしました」と稗田阿礼の口伝を文章化する難しさを述べている。日本書紀は全文が漢字書きとなっている。

朝廷には漢字文化が定着していたが、表意文字である漢字で、日本古来の倭語(やまとことば)を表現する難しさがあったと思う。それを成し遂げた太安万侶によって、古代の神々が私たちの前によみがえったといえる。それは「皇室神話」を遙かに超えた日本文学の「出できはじめの祖」(作家・田辺聖子)となった。
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