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鼻欠け猛将の結城秀康 古沢襄
結城紬は良質の繭を煮て、乾燥した真綿を“つくし”にからませて無撚糸をつくり、藍がめに糸を浸して絞るなど複雑な工程を経て作られる。この地を支配したのは関東の名門・結城氏であった。

三つ巴の家紋を持つ結城氏は、朝光の時に治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に従い、関東の武将として頭角をあらわした。足利尊氏の鎌倉挙兵に際しては、北朝側勢力として働いて、室町時代には関東における一大勢力となっている。

永亨十年(1438)の永亨の乱で、鎌倉公方足利持氏に荷担して、結城城が落城し、結城氏は一時断絶する不運があったが、持氏の子・成氏が鎌倉公方になるに及んで家督を許され再興し、時代を経て徳川家康の子・秀康を養子に迎えて戦国大名として重きをなした。

話は飛ぶが、若き日の家康は織田信長の圧力に屈して、妻の築山殿と長男の信康を死に追いやる悲劇を味わっている。北の方といわれた築山殿は今川義元の姪、信康はその子。

秀康は次男。お万の方という築山殿の侍女に生ませた子で、幼名を於義丸と称した。出生時には双子だったが、一人は死産だったという。当時、双子は不吉なものとされていた。家康はこれを嫌ったのか、於義丸とは縁の薄い父親だったという。

家康の心は次第にお万の方から離れ、お愛の方という側室を寵愛するようになる。お愛の方との間にできたのが、幼名を長松丸と称した二代将軍秀忠。三男の秀忠は関ヶ原の合戦に遅参するなど凡庸な武将だったという。

次男の秀康は関東にあって佐竹、多賀谷、上杉といった石田三成に呼応しようとする大名の押さを勤めた総大将。どうみても器量は秀忠よりも上の激しい気性の猛将であった。

それより前のことになるが、於義丸は秀吉と家康の抗争の中で、政略の犠牲となっている。家康を怖れた秀吉は於義丸を人質として大阪城に差し出すことを求め、これに反撥する家康とのやりとりの中で「秀吉の養子」という形式を整えて両者の妥協が成立している。

大阪城に入った時の於義丸は十二歳。元服して秀吉の「秀」と家康の「康」を貰って、秀康と称したといえば聞こえが良いが、人質であることには変りない。秀吉が家康を駿府から江戸に移すと、秀康を結城家の養子に出している。

戦国の世にあって人質の悲哀を味わった秀康は、一時、怒りに燃えて遊里に出入りして鬱を晴らしている。そのために南蛮瘡(梅毒)に冒され、鼻が落ちたという。鼻欠け猛将・秀康の由来である。

石田三成が挙兵した知らせを聞いた家康は、上杉景勝討伐の陣を宇都宮に敷いていたが、迷わず秀康を陣屋に呼んで関東の総大将に指名した。「家康が西に向かったと景勝が知れば、佐竹も動く。総大将には秀忠では心もとない。関東を護り、江戸城を護るためには武門の名が高い秀康しかいない」と言って家康は涙を流したという。

西に向かう家康にとっても関ヶ原の合戦は生還を期さない大勝負。関東に残る秀康にとっても謙信以来の弓矢の誇りを持つ上杉勢との決戦を覚悟せねばならない。狸オヤジの家康の涙は嘘であるまい。

家康はこれ以来、疎遠だった秀康の父親に戻ったという。関ヶ原の合戦が家康の勝利に終わると、秀康は結城十万石から一挙に越前北ノ庄六十八万石を与えられている。

越前に赴いた結城秀康は、徳川の旧姓である松平姓に改姓し、松平秀康は慶長十二年(1607)に没している。秀康が没して七年後の慶長十九年(1614)に大阪冬の陣がおこるが、秀康の長男・忠直が二十歳で初陣、秀康譲りの猛将ぶりをみせて評判となっている。
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