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鬼才・林倭衛の生涯 古沢襄
「風紋」のママさんというとご存知の方があると思う。林聖子さん・・・大正から昭和にかけて画壇の鬼才といわれた林倭衛の長女。六〇年安保の頃、偶然のことだが、新宿にあった聖子ママのバー「風紋」に行って常連となった。

あれから四十六年の歳月が経ったが、店は移転したものの聖子ママは元気で、ことしも「お元気ですか。堀江朋子さん(女流作家、上野壮夫の次女)も時々寄って下さっています」とハガキを貰っている。今でもテレビや新劇関係、作家たちのたまり場になっているという。作家の壇一雄にも「風紋」でお会いした。

林倭衛の代表作は「出獄の日の0氏」、「0氏」とはアナーキスト大杉栄のことだが、林倭衛もアナーキスト。大正八年の第六回二科展に「出獄の日の0氏」の肖像画が出展されたが、保釈中のアナーキストの肖像が、公衆の前に展示されるのは問題があるという当局の命令によって、展示を拒絶されている。だが、このことが画壇ジャーナリズの噂となり、林倭衛の名が一躍知られるようになった。日の目を見なかった作品を聖子さんはひそかに所蔵して、戦後を迎えている



迫り来るファスズムの足音に絶望した林倭衛は、日本を離れて渡仏し、パリで新しい芸術思潮の胎動に思い切り浸る一方で、親しい仲間と酒を飲み歩き、時にはパリ警察に留置される脱線劇もあったらしい。この頃の林倭衛は、モンパルナスに近い安アパートに住んで、ルーブル美術館に通ったという。

大正十二年には中国人に変装して、日本を脱出し、パリに現れた大杉栄とも再会している。大杉栄は関東大震災のさなかに惨殺されたが、異郷にあった林倭衛氏はこの知らせを聞いて、茫然自失し、しばらくは慟哭が止まらなかったという。渡仏時代の作品には「フランス風景」「橋のある風景」「パリ郊外」など傑作が残った。



やがて帰国した林倭衛は、生まれた聖子さんや親子三人が東京・小石川で水いらずの生活をしているが、帰国の年に春陽展の七点の作品を出品している。画風も簡潔さはそのままだったが、表現に深みが備わり、色調も落ち着いたものになっていた。

しかし時勢は、小林多喜二の惨殺に象徴されるプロレタリア文学運動の弾圧などすでに軍人が幅をきかせる戦時色が濃くなり、日本は無謀な太平洋戦争に向かって走り出していた。この頃から林倭衛氏はよく旅に出ている。また房総の海岸にも出て、カンバスに海浜風景を描いたが、渡仏時代の南フランス・エスタックを想い出していたのではなかろうか。やがて房総の御宿に転居する。絵の具も酒も入手が難しくなる毎日が続き、林倭衛氏は心も身体も衰弱する一方だった。

太平洋戦争はすでに日本の敗色が濃厚となっていた。サイパン玉砕、東条内閣の退陣と破局に向っていた昭和二十年一月十日、林倭衛氏は浦和郊外で死去。敗戦の悲劇を見ずにこの世を去った。遺書に「軍人、役人大馬鹿野郎」と記されてあったという。
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