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二通の平沢和重夫人からの手紙 古沢襄
手紙を整理をしていたら、平沢和重さん(故人)の夫人・朝子さんからきた二通の手紙が出てきた。西和賀町の玉泉寺に建立されている「胸は祖国におき、眼は世界に注ぐ」という平沢和重碑文の由来について、現代史懇話会の雑誌に書いたことがあるが、元参議院議員の国弘正雄さんがこれを読んで、朝子夫人にコピーを届けてくれた。

朝子さんは、それで矢もたても堪らなくなり、亡夫の故郷を十数年ぶりに訪ねていった。玉泉寺の全英和尚から私の住所を聞いて、「突然のお便りをお赦るし下さいませ」という書き出しで、長文の手紙を頂いくことになった。平沢和重さんの碑の隣に、私の父と母の文学碑が並んでいる。そこにも朝子さんは、手を合わせて頂いている。



「旅の途中、北上駅からほっと湯田に向かいます列車の窓からは、緩やかに蛇行する和賀川の美しい流れが続きますし、沢内の豊かに濃い緑も昔のままの姿を見せて呉れました」と書いてあったが、今、読み返しても、しっかりとした筆使いである。情景描写も見事というしかない。

平沢一家は太平洋戦争の末期に湯田村に疎開、沢内村と隣接する湯本に一時住んでいる。幼い娘さんを背負って、自転車で朝子夫人は左草の親戚の農家に買い出しをする毎日だった。左草には和重さんの父親の姉さんが嫁いでいた。佐々木キサさんという。朝子さんの顔をみるとキサさんは、台所の揚げ板の下から蔵ってあった卵や野菜、お米を甥の嫁さんである朝子さんに渡してくれた。

信州に疎開した私の母も同じ様な買い出しの毎日だった。朝子さんのように自転車に乗れなかったので、リックッサクを背負って、歩いて農家に通う毎日であった。私たちの世代は、そうやって母の力で育ったものである。まさに母は強し!である。

この佐々木キサさんの一族に、左草の旧家・佐々木家がある。因縁というのは、何と不思議なものであろう。私の先祖の五代善治は、佐々木家から妻を迎えている。陸中国湯田村佐々木市右衛門伯母・クマがその人。文化十四年(1817)に生まれ、明治十一年に六十二歳で没した。

私は、佐々木家の当主で、九代・佐々木保夫さんを訪ねたことがあるが、話の途中で平沢和重さんとも縁があると、保夫さんが語ってくれた。そうなると平沢家と古沢家は遠縁というわけだ。

朝子さんの手紙でそれが裏付けられたことになる。縁を辿ると平沢和重と私は歴史の細い糸で繋がっていた。世の中には、こういう偶然があるものだ。

玉泉寺の境内で雨に打たれながら、今日も平沢和重の碑と古沢元・真喜の文学碑が並んでいる。縁(えにし)の不思議さをあらためて思い知る。繰り返すようだが、世の中にはこういう偶然がある。

朝子夫人の手紙は、最近は自然の環境に心が惹かれると心境を述べて、「こんなに自然に惹かれる自分は、多分、天然の素材に還える日が近いに相違ありません」と結んであった。心憎いばかりの達観ぶりである。
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