<< 北投石・遠野石・阿蘇石 古沢襄 | main | 上野駅構内の啄木碑 古沢襄 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - | pookmark |







原敬の気骨と反骨 古沢襄
古沢元は明治40年12月11日に西和賀町沢内新町で生まれた。本名玉次郎。生きていれば、12月で満九十九歳になるから、数え歳で百歳ということなのだろうか。昔風にいえば、今年は生誕百年なのだろうが、今では数え歳は流行らないので、岩手日報の記者には言わなかった。

五月十三日に菩提寺の玉泉寺で、古沢元・真喜夫婦作家の文学碑忌が行われるので、旧沢内村教育委員会が発刊した作品集の御礼の言葉を挨拶で喋ろうと考えているが、合わせて今年が生誕百年に当たると言うつもりでいる。

作品集の監修に当たった文芸評論家の吉見正信さんは「古沢は東北人の魂を抱き続けた文学者。西和賀の合併を機に、地域の精神風土の大切さをあらためて認識してほしい」と述べている。

西和賀の精神風土とは何か。それは時流に流されない”反骨の精神”ではないかと思う。冬には二メートルを越す積雪に閉ざされる陸の孤島で、貧困と寒さに耐えて日本一の健康村を作った。その実践者だった深沢晟雄村長も反骨の人であった。

岩手県人を代表する人物は、平民宰相・原敬ではないかと思う。政友会総裁となった原敬は、大正六年に盛岡の報恩寺で行われた「戊辰戦争殉難者五十年祭」で「戊辰戦争は即ち政見の異同のみ。当時は勝てば官軍、負くれば賊軍との俗論あり」と言い放った。

この翌年に大命は原に下り、無爵の平民宰相が生まれている。藩閥の最後の砦となった寺内内閣が行き詰まっていたのだから、黙って熟柿が落ちるのを待てば良さそうなものだが、あえて朝敵の汚名を着た戊辰戦争の殉難者を讃える祭文を読んでいる。

太田俊穂さんは郷土を愛した文化人だが、原敬が授爵の沙汰がある度に断って、生涯無爵を貫いたのは、薩長の軽輩が争って公爵、伯爵となり、庶民と一線を画した世相に反骨したためだと言っている。

また、宰相になってからも護衛の警官をつけることを嫌い、それがもとで大正十年に東京駅頭で土佐の暴漢によって刺殺されている。原夫人のあさ子さんは賢夫人の名が高かったが、いささかも動じないで、原の遺体を総理官邸に持ち込むことを許さず、自宅に連れ戻った。死せる原敬は一介の私人だという論理を貫いている。明治の女性の気骨とも言うべきであろう。東北人の魂は男だけのものではない。
| - | 07:35 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







スポンサーサイト
| - | 07:35 | - | - | pookmark |







コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://kajikablog.jugem.jp/trackback/303991
トラックバック

CALENDAR

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< May 2019 >>

SEARCH

SELECTED ENTRIES

RECENT COMMENT

CATEGORIES

ARCHIVES

LINKS

PROFILE