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一九九四年六月のドラマ(再掲)  古沢襄

何となくキナ臭い匂いがしてきた。アメリカと北朝鮮が国家間の戦争になるとは思えないが、紛争の火種が強まった気がしてならない。


十年前、同じ思いをして「一九九四年六月のドラマ」(2006.09.10 Sunday name : kajikablog)を書いた。日本政府がまったく知らないところで、アメリカと北朝鮮が一色触発の危機的状況に置かれていた。それを再掲してみる。


■イラク戦争が秒読み段階に入った時にアメリカのエネルギー庁が、石油の備蓄が最大規模だった1994年と同量になったと公式発表していた。


この1994年とは、どういう年であったか?日本では羽田孜首相による内閣が平成六年四月二十八日に成立したが、僅か六十四日間の短命内閣に終わり、同年六月三十日に退陣している。


この年についてアメリカのワシントン・ポスト紙の北東アジア特派員だったドン・オーバードーファー(DON OBERDORFER)氏は、「二つのコリア(THE TWO KOREAS)」という労作を1997年に出版した中で、1994年の春から初夏にかけてアメリカと北朝鮮が全面戦争の瀬戸際にまでいっていた衝撃の事実を明らかにしている。


その時のアメリカは民主党のクリントン大統領。「二つのコリア」は、未公開だったアメリカ政府・軍関係の機密資料を「情報の自由法」によって入手し、実証的に解明している。残念ながら日本のコリアンウオッチャーと称する人たちとは、比較にならない研究実績を持っているのが、オーバードーファーである。


1994年に北朝鮮との全面戦争を決意したアメリカは「作戦計画5027」を発動して、日本海の元山沖にブルービッジを旗艦とし、空母はキテイホーク、インデイペンデスなど四隻、ペローウッドなどの揚陸強襲艦など延べ一〇〇隻を集結した。石油備蓄はまさに「作戦計画5027」のために行われた。


五月十八日に米国防総省で会議が持たれたが、その翌日、ペリー国防長官らはクリントン大統領に…鮮半島で戦争が勃発すれば、最初の九十日間で米軍兵士の死傷者五万二千人、韓国軍の死傷者四十九万人∈眄支出は六百十億ドルを超えるが、同盟国からの資金供給はほとんど期待できない・・・と報告している。


クリントンのアジア政策は、中国重視・日本軽視の色が濃かったから、日本からの資金援助は期待していない。と同時に日本海における緊急事態について羽田内閣はほとんど無視されている。羽田首相にとって政権の存亡をかけた国内政局の方が緊急課題であった。


六月上旬、ジミー・カーター元大統領が、朝鮮半島の危機回避のために、歴史的な役割を果たそうと決意している。


カーターは1991年から1993年にかけて、金日成主席から毎年、平壌を訪れるよう招請されていたが、その都度、米国務省の反対でつぶされてきた。


カーターが大統領時代に在韓米軍の撤退を画策したことから、米国務省も米国防総省もカーターの個人プレーを警戒していたのである。カーターから平壌入りの意向を伝えた書簡を受け取ったクリントンは、正式な米特使ではなく一民間人として北朝鮮に行くのなら異議は差し挟まないと冷たい返事をしている。


日本の政情については ̄田首相の八党連立内閣は崩壊寸前にある∀⇔内閣が存続できるかは社会党の出方にかかっている社会党は歴史的に北朝鮮と近い関係にある・・・と極めて正確な分析をしている。


このような情勢下でカーターは六月十三日、北朝鮮に向かうために韓国のソウルに入った。金泳三大統領は「カーター訪朝はタイミングが悪い」と冷淡であった。


事態が緊迫していることを知っていた韓国政府は、平静を装いながら戦争に備えて、一般市民の民間防衛訓練を実施すると発表し、株価は二日間で二五%も下落、米や乾麺類、ろうそくまでもが、買いだめで値上がりしていた。


このような状況下でカーターは板門店の境界線を歩いて渡り、北朝鮮軍に身を委ねた。CNN特派員のマイク・チノイとカメラクルーも同行した。


六月十六日朝、クリントン大統領はゴア副大統領、クリストファー国務長官、ペリー国防長官らを集めて、北朝鮮問題で最終決定を下す御前会議を開いた。決定内容は、北朝鮮に対する制裁と朝鮮半島に部隊増強になる筈であった。


そこに平壌からカーターの電話が入った。金日成と会ったカーターは、核計画を凍結しIAEAの査察官を北朝鮮に残留させる同意を得たと興奮した声で伝えてきた。しかもCNNテレビで生中継してカーターは発表すると伝えて電話を切った。


出鼻をくじかれたクリントンは不快感を隠さなかったが、カーター訪朝で戦争に危機が回避されたことは、まぎれもない真実である。


それでもクリントンは帰国したカーターがホワイトハウスを訪問した時には、キャンプデービッドの山荘に閉じこもったまま電話で話しただけであった。世界を震撼させ、不安が安堵に変わったドラマが展開された六月だったが、その舞台に立つこともなかった羽田首相は、六月三十日に総理官邸から去った。


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| 古澤襄 | 18:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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