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有田焼きの陶祖、李参平(和名 金ケ江参平)   古沢襄

■秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた朝鮮人


李参平または李三平とも伝えられているが、秀吉みずから朱印状を発して多くの朝鮮陶工たちが九州に連れてこられたが、その一人が有田焼きの陶祖となった。


李参平の子孫・金ケ江三兵衛襲名披露作品展も持たれ、有田に李参平記念碑も作られた。

母・古沢真喜は、朝鮮出兵で先兵となった鍋島藩が朝鮮人陶工の連行に熱心だったので、日本の陶芸技術が九州で飛躍的に発展したという。信州上田生まれの古沢真喜だったが、有田焼きにのめり込んだ理由はそこにある。


昭和作家でもあった古沢真喜だが、四百年前の陶芸技術が李参平らによって飛躍的に飛躍した歴史を調べあげている。いつかはこの歴史を作品として書きたいと言っていたが、「幻の碧き湖」に次ぐこの作品を書くことなく亡くなっている。


信州上田の陶器店で生まれた古沢真喜が李参平に強い関心を持ったのは、それなりの理由があった。有田焼を盛んに集めたのも、それが原因であった。


福岡支社長を三年務めて本社に帰任した私だが、すでに病床にあった母からは佐賀県のことばかり聞かれた。李参平が鍋島藩の家老多久長門守によって捕えられ、連れられてきこれた歴史も知っていた。


もっとも李参平が佐賀県有田で磁器の陶石を発見するまでは、かなりの時間を費やしている。


李参平は朝鮮忠清道金江(現・韓国忠清南道公州市反浦面)出身。日本で初めて白い肌の陶磁器「白磁」を作った。日本では金ヶ江三兵衛の名を与えられた。


有田西部地区にて築窯。その後、有田東部の泉山で良質で大量の白磁石を発見し、天狗谷窯(白川)の地で日本初の白磁器を産業として創業した。これが有田焼の起こりである、という。「李参平の墓」は有田町指定史跡。


■17〜18世紀のヨーロッパに多大な影響を与えた日本磁器(ウイキ)


17世紀後半、ヨーロッパへ輸出された「伊万里」や「柿右衛門」などの日本の磁器は絶大な人気を博した。王侯貴族たちは邸宅に磁器を飾り、日本や中国の磁器を競って買い集めた。


ドイツのザクセン選帝侯アウグスト2世は日本磁器に傾倒するあまり、「日本宮」という磁器の収集館を建設するほどだった。現在、世界で高く評価されるマイセンも、「東洋のような優れた磁器を作りたい」という熱意から生まれたものだった。
 

■「白い黄金」に憧れた欧州貴族


ヨーロッパ磁器の最高峰と賞賛されるドイツのマイセンの製品は、世界中で高く評価されている。もともと、マイセンは「日本や中国のような磁器を作りたい」という憧れから開かれた窯であり、日本の磁器はヨーロッパで熱狂的に支持されていた。


陶磁器とは、やきものの総称で、素地の状態や焼成温度などによって土器・陶器・磁器などに分けられる。「陶器」は土ものといわれ、陶土を原料とする。益子焼や薩摩焼、美濃焼などの種類がある。


「磁器」は石ものといわれ、陶石を原料とする。陶器よりも高温で焼く(1300度前後)ので、かなり硬い。素地が白く、有田焼、伊万里焼、砥部焼などの種類がある。


色絵を付けた磁器が日本で初めて焼かれたのも有田だった。色絵とは、陶磁器の表面に赤や黄、青、緑などの色絵具で模様を描いて焼き付ける方法だ。当時は、明(中国)で色絵の磁器が盛んに焼かれており、中国の色絵の技術を聞いた酒井田柿右衛門が工夫を重ね、色を付けることに成功した。


1602(慶長7年)、オランダは、オランダ東インド会社を設立すると、中国の景徳鎮(けいとくちん)の磁器を買い付け、ヨーロッパ各地で販売した。


しかし、1644年に明が滅び、清が誕生したが、戦乱によって磁器の生産が困難になったため、オランダ東インド会社は中国以外の磁器を探した。そして、新たな磁器の産地として発展していた日本から、磁器を買い付けることになった。


1659年から日本の磁器の本格的な海外輸出が始まり、ヨーロッパに運ばれ始めた。日本の磁器は、ヨーロッパだけでなく、東南アジア、西アジア等にも輸出された。


東洋からヨーロッパへ運ばれてきた磁器は「白い黄金」と呼ばれ、その美しさに魅せられた王侯貴族たちは、競って集め始めた。日本磁器を手に入れるために、彼らはわざわざアムステルダムまで人を派遣し、東洋から入る船を待機させたほどだった。


その後、肥前から大量に磁器が海を渡ったが、約100年の間に120万個以上の磁器がヨーロッパへ輸出された。記録に残っていない磁器を含めれば、実際は2、3倍の数は輸出されていたという。


初めは、中国磁器に似た物として日本の磁器が求められていたが、17世紀後半になると柿右衛門様式という色絵が多く輸出されるようになった。


色絵の中で、赤色を主とする「赤絵」は、12世紀頃に中国で始まった。赤色は発色が難しく、日本では色絵に成功した柿右衛門の赤絵が広く知られている。余白を活かして、花鳥風月を華麗に描いた明るく可憐な文様は、中国のものとは異なり、独自のスタイルを持っている。


■アウグスト強王の「日本宮」


伊万里や柿右衛門の磁器は、最先端の流行品として、ヨーロッパでセンセーションを巻き起こした。柿右衛門は、当時ヨーロッパで知られていた東洋磁器の中で、最も高価で最も魅力的なものだった。


ヨーロッパでは、貴族たちの邸宅の室内を東洋磁器で飾ることが大流行した。磁器が従来までの高級装飾品の一つとしてではなく、部屋の中心的要素として用いられることに弾みをつけたのは、日本の美しい色絵磁器だった。


1660年代から1740年代の間、ヨーロッパ市場で日本の磁器が優勢を占めた。<『宮廷の磁器』(英国東洋陶器学会著/同朋舎出版)より>


柿右衛門様式や伊万里などは、ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿、ロンドンのハンプトンコート宮殿やバッキンガム宮殿など、ヨーロッパ各地の宮殿に飾られた。


とりわけ、ドイツのザクセン選帝侯であり、神聖ローマ帝国ポーランド王を兼ねたフリードリッヒ・アウグスト2世(1670〜1733)は熱烈に東洋磁器を愛し、ドレスデンのツヴィンガー城に、柿右衛門を含む膨大な数の東洋磁器を集めた。


1722(享保7)年には、「日本宮」という磁器の収集館を建設するほどの熱の入れようだった。アウグスト2世は、「竹に虎」という柿右衛門の文様をとりわけ好んだ。


■日本製品を模倣したヨーロッパ


世界で初めて良質の白い磁器が作られたのは、中国の隋の時代(6世紀)だという。


17世紀、ヨーロッパでは東洋の磁器が大流行したが、当時のヨーロッパには、中国や日本の磁器のように、純白で薄く、硬く艶やかな硬質磁器を作る技術が無かった。<マイセン公式サイトより>


やがて、列国の王侯貴族や事業家は、自分で磁器を作れば、東洋に流れる莫大な富が手に入ると考えるようになり、ヨーロッパ全土で磁器生産への熱意が高まった。 


アウグスト2世は、国家の最優先事業として、東洋のような磁器を作ることを目指した。試行錯誤の結果、磁器の生産に成功したアウグスト2世は、1710年にマイセンの町に磁器工場を建設した。


こうして、欧州初の硬質の白い磁器の窯が誕生し、ヨーロッパはようやく東洋と同じ水準に達したのである。


マイセンでは当初、中国の磁器が複製されていたが、1720年代からは柿右衛門様式や伊万里を手本として、模倣品が大量に作られるようになった。


その後、柿右衛門や伊万里の模倣品は、イギリスのチェルシー窯、ボウ窯やフランスのシャンティー窯やオーストリアなど多くの国々で作られた。


現在、ロイヤルコペンハーゲン(デンマーク)は、特に日本で人気のある磁器メーカーだが、藍色の唐草模様を付けたブルーフルーテッドシリーズは、日本の磁器の影響を受けたものだ。


柿右衛門や伊万里があまりに大規模に模倣され改作されたため、その起源が東洋にあることが忘れ去られるほど、ヨーロッパの磁器の一部へと浸透していった。それほどまでに、当時の日本の磁器は、ヨーロッパに絶大な影響を及ぼしていたのである。


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