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戦没者慰霊の旅は平和・反戦の旅でもある   古沢襄

私とほぼ同年代の天皇皇后両陛下が戦没者を慰霊の旅を続けておいでなのは、どんなに身を削るようなことだろうか、と頭が下がる。


それも戦陣で倒れた日本人の慰霊だけでない。比島で日本軍は五〇万の戦死者を出したが、比島で繰り広げられた日米戦争に巻き込まれたフィリピン人は百一〇万にのぼる死者が出ている。そのフィリピン人の悲劇に天皇皇后両陛下は深い哀悼の意を示された。
 



これほどの平和外交を天皇皇后両陛下が身をもって示されたのは、日本人なら心から敬意をもって受け止めなければならない。二度にわたるシベリア墓参の旅をしてきた私だが、両陛下の姿勢には及びもつかない。


シベリア墓参の二回の旅をした私だが、合わせてほぼ二〇日間。ウラジオストク、ハバロフスク、イルクーツク、ウランウデ、リストビヤンカ、ニジネウデインスク、タイシェットの戦没者慰霊の旅をした。


http://blog.kajika.net/?search=%A1%D6%A4%B5%A4%E9%A4%D0%C1%C4%B9%F1%A4%E8%A1%A1%B1%C9%A4%A8%A4%A2%A4%EC%A1%D7%A1%A1%A1%A1%B8%C5%C2%F4%EA%F7


祖国の土を踏むことなく異国に眠る人たちの無念さの一つひとつが胸に迫ってくる。それを受け止め、日本は見事に廃墟から復興を果たしたと報告する義務が私たちにはある。物見遊山の旅ではない。


それは平和・反戦の旅だと私は思っている。


http://blog.kajika.net/?search=%A5%B7%A5%D9%A5%EA%A5%A2%CA%E8%BB%B2%A4%C7%C9%D4%C0%EF%A4%CE%C0%C0%A4%A4%A1%A1%B8%C5%C2%F4%EA%F7

 


■天皇皇后両陛下 戦没者を慰霊


フィリピンを訪れている天皇皇后両陛下は、29日、マニラ郊外にある日本政府の慰霊碑を訪れ、太平洋戦争の戦没者の霊を慰められました。


両陛下は、現地時間の29日昼前、マニラ郊外のカリラヤにある日本政府が建てた「比島戦没者の碑」に到着されました。


慰霊碑には、太平洋戦争の戦没者が祭られていて、両陛下は、日本から訪れた遺族や生き残った元日本兵などおよそ150人が見守るなか、厚生労働省の二川一男事務次官の案内で、両国の国旗が掲げられた慰霊碑の前にゆっくりと進まれました。


そして、側近から白い菊の花束を受け取ると、慰霊碑に向かって一礼して供花台に供え、深く拝礼して戦没者の霊を慰められました。


このあと、遺族や元日本兵たちの前まで歩き、一人一人に丁寧にことばをかけられました。天皇陛下は、ルソン島で戦死した父親の写真を手にした71歳の男性に、「残念なことでしたね」とことばをかけ、遺族などでつくる団体の代表には、「遺族も高齢の人が多くなるから、安定した生活ができるようよろしくお願いします」と話されていました。


また、レイテ島の戦いから生還し、戦友の遺骨の収集や慰霊巡拝を続けてきた95歳の男性に対し、天皇陛下は「遺族のためにいろいろ尽くしてくれてごくろうさまです」とねぎらいのことばをかけられ、皇后さまは「よく生き抜いてくださいましたね」などと話されていました。両陛下は、30分以上にわたって、遺族や元兵士たちにことばをかけ、車に乗り込む前にもう一度振り返り、慰霊碑に向かって頭を下げられていました。


フィリピンでは、太平洋戦争で50万人以上の日本人が命を失っていて、カリラヤの慰霊碑は、海外で亡くなった戦没者を追悼したいという両陛下の意向を受けて訪問先に加えられました。両陛下は、27日、フィリピン側の戦争犠牲者を追悼する墓地でも花を供えていて、29日の慰霊で、日本とフィリピン両国の戦没者の追悼を果たされました。


■小学生が歓迎


天皇皇后両陛下が訪問されているフィリピンの首都マニラ郊外にある町、カリラヤでは、地元の小学生たちが日本とフィリピンの国旗を振って両陛下を歓迎しました。子どもたちは、太平洋戦争の戦没者の慰霊に向かわれる両陛下の車が通ると、手作りの両国の国旗を振りながら、タガログ語で「ようこそ」という意味の「マブハイ」と叫んで歓迎していました。両陛下は、子どもたちに向かって、窓越しに手を振って応えられていました。両陛下を出迎えた小学生の女の子は、「私たちの国に来ていただいて、すごくうれしいです」と話していました。


■元兵士・松本實さん


東京・新宿区の松本實さん(95)は、太平洋戦争の末期、陸軍の「第1師団」の師団長の補佐役として、激戦で知られるレイテ島の戦いに参加し、その後、別の島で終戦を迎えました。


松本さんは、昭和19年10月、上海からフィリピンに転戦し、11月の初めにレイテ島に上陸しました。当初から武器や物資が不足し、明治時代の旧式の武器での戦いを余儀なくされるなか、アメリカ軍から激しい砲撃を受け続けたといいます。松本さんは、「近くで『やられた』という声が聞こえ、砲弾が落ちてくる中をはって向かうと、仲間の背中が砲弾で切れていて手の施しようが無かった。『軍医が来るまで我慢しろ』と言ってその場をあとにし、仲間は戦死した。敵の攻撃が激しく、バタバタと倒れていく戦友を収容することもできなかった」と話しています。昭和20年1月にセブ島に転戦し、そのまま終戦を迎えましたが、レイテ島に残ったおよそ2000人の仲間は、その後、全滅したということです。


松本さんは、「みんな誰にもみとられずに本当に寂しく亡くなっていった。だから私は1人ででも慰霊に行くんです」と話します。そして、天皇皇后両陛下がカリラヤの慰霊碑を訪ねられることについて、「両陛下が、戦友のために拝んで下さるのは非常にうれしいことです」と話しています。


松本さんは、29日、両陛下の慰霊を見守ったあと、レイテ島やセブ島の慰霊碑を回って、戦友に報告する予定だということです。


■元兵士・米川義男さん


三重県津市の米川義男さん(92)は昭和19年9月フィリピンのマニラ湾で輸送船に乗っている際アメリカ軍の戦闘機による攻撃で重傷を負い、翌年、配属された広島市の陸軍の司令部で原爆投下により被爆しました。29日は自宅のテレビで両陛下が戦没者を慰霊される様子を見守りました。


米川さんは「両陛下に行っていただき感無量でありがたいです。みな機銃掃射でやられ、戦友の1人は亡くなっていく前、『お母さん、さようなら』と言っていました。フィリピンで起きたことも広島であったことも人間がしてはいけないこと、殺し合いという点では同じだったと思います。戦争は絶対にしてはいけない、ただ、そのひと言です」と話していました。


■遺族 本間尚代さん「ありがたい」

フィリピンで命を落とした戦没者の遺族や、生還した元兵士でつくる「曙光会」で事務局長をしている東京・世田谷区の本間尚代さん(79)は、ルソン島の戦いで父親を亡くしました。


父親の吉田正さんは、昭和19年5月にルソン島に派遣され、翌年の6月、戦況が悪化するなか、山中を転々とし、最後は爆弾を抱いたまま敵の戦車に突っ込み命を落としたということです。正さんは、出征前、当時8歳だった本間さんを疎開先まで送り届け、抱き締めながら、「お父さんはどこにいても見ているよ。


寂しくなったら靖国神社に会いに来なさい」と話しました。本間さんにとって、これが、正さんとの最後の別れになりました。本間さんは、「泣くまいとかみしめた唇の痛みを今でも思い出します。子どもと2度と生きては会えないという父の思いを想像すると、たまらない気持ちになります」と話しています。


本間さんは、40年ほど前から、曙光会の会員の遺族たちと毎年フィリピンを訪ね戦没者の慰霊を重ねてきました。天皇皇后両陛下がフィリピンで慰霊に臨まれることについて、「54年前は、厳しい対日感情など状況が許さなかったでしょうが、いつかは慰霊に行って下さるだろうと思っていました。去年、パラオで慰霊された際にも、お二人の後ろ姿から本当に心が伝わってきて、テレビに向かって手を合わせていました。ありがたいということばしかありません」と話しています。(NHK)


■再びシベリア墓参の旅へ 風雨の中で慰霊追悼式=古沢襄


◆十二日間のシベリア墓参の旅が終えて、九月一日に無事に帰国。四年前のシベリア墓 参の時は、日本遺族会の主宰でハバロフスク、イルクーツク、ウランウデ、ウラジオストックという大都市中心のコースだったので、2キロしか体重が減らなかったが、 今回は北限の収容所があったニジネウデインスク、タイシェットなど僻地の墓参が後 半の日程に含まれたので、苛酷な条件下の墓参が続いた。


出国前に七一キロだったの が帰国時には六七キロ、十二日間で四キロも体重が減ったことになる。


新潟での結団式で私がブリヤート共和国巡拝の遺族代表に選ばれた。遺族たちの年齢 は、上が七十七歳、下が六十二歳、男十人・女二人で、各県から一人、私のところの 茨城県だけが二人の選出になっていた。これに厚生労働省から二人、通訳一人、現地 ガイド延三人という構成の日本政府派遣慰霊巡拝団。


◆ハバロフスクで最初の夜、私は「ハバロフスク、イルクーツク、ウランウデのコース は四年前にきているので、その経験を生かしながらお役目を果たすつもりでいるが。


その後の第二シベリア鉄道沿いの北辺コースは、私にとっても未知の世界になる。日程をみるとかなりのハード・スケジュールになっているので、皆で助け合いながら落伍者を出さない覚悟が必要になる」と前置きして、二つのことを言った。


 一つは風邪をひかないこと。日本を出る時はハバロフスクの温度が二〇度くらいと聞 いてきたが、来てみれば十七度、夜になれば十度は低くなる。酷寒にはマイナス三十度。


イルクーツクはこれが五度は低くなる。日中は十二度、夜は二度、酷寒はマイナス四十度。ウランウデはさらに五度さがる。日中は七度、夜は零下、酷寒はマイナス五十度になる。北辺にいくとさらに厳しくなる。日中は暖かいと感じても、夜は寒さに震えるのがシベリア奥地の気候だと認識すること。


シベリア鉄道の中はスチームが 通っているので暖かいが、デッキに出ると寒い、さらに連結器のドアを開けるとモロに外気が入ってくる。列車を降りる前に外気の寒さを肌で感じて、防寒の支度をしないといけない。


◆もう一つはロシアの食事は動物性の油をふんだんに使うので、チーズやバターをあま り食べ過ぎないことが必要。ロシア名物のボルシチも油をたっぷり使っているので胃にもたれる。


二.三日の短期旅行なら良いが、一週間を超えると旅行になると腸内発酵して消化不良を起こす。腹八分目というが五分目ぐらいのつもりでいないと下痢を起こす。


風邪をひいたり、下痢がとまらないと体力を消耗してしまう。酷寒に耐えねばならないロシア人にとって必要な食事なのだが、温暖な気候の日本人にとっては重過ぎると覚らねばならない。


◆四年前の経験だが、ブりヤート共和国の首都・ウランウデでトップクラスのガゼル・ ホテルですらシャワーのお湯が出なかった。マイナス五度の寒さの中で冷え込んだ身体を温める術がなかった辛い経験をしている。


今度もそのガゼル・ホテルに二泊する という。シベリア墓参は日本での墓参りと根本的に違う。墓地は市の中心部から離れた山林の中にあることが多いので、雨が降れば泥濘の道を歩かねばならぬ。革靴では 泥濘に足をとられて動きがとれなくなるので、登山靴が一番安全である。


◆案の定、ウランウデ翌日の現地追悼式では、第九百四十四特別軍病院墓地に向かう途 中でシベリア名物の驟雨が襲ってきた。


風も強く、凍える様な寒さに身を包まれる。 ここには私の父も眠っている。五百三十二人が葬られているブリヤート共和国で最大の墓地である。朝鮮半島出身の元日本兵も葬られている。遺族十二人のうち八人の父や兄が、この墓地に眠っている。私以外は初めての墓参になるので、前日にこの墓地 で肉親の墓探しが始まって、幸いなことに全員の肉親の墓がみつかった。


◆前日にはまずウランウデの第三〇収容所タリツイ駅の墓地を詣でる。七十一人が小高 い丘のうえで眠っている。団員の千葉県女性の父が葬られているが、五十八年の歳月を経ているので多くの墓石が倒れたままになっている。


墓参の旅は、その家族の戦後の物語でもある。女性の父は農家の生まれ。父に嫁した母は「戦争花嫁」で、長女の彼女を含めて四人姉妹が母親とともに父の家の農家で抑留された父親の帰国を待ったが、きたのはシベリアの収容所で病死したという悲しい知らせだった。それからのご苦労は言葉では言い尽くせない


◆現地追悼式で遺族代表の私が「追悼の辞」を雨中で読むとすすり泣く声が漏れてきた。やがて雨も風もやみ、寒さは残るが、静寂に包まれた慰霊追悼式になった。


                追悼のことば


謹んで追悼のことばを申し上げます。本日、ここブリヤート共和国の地に眠る皆さんの御霊をお迎えし、慰霊追悼式が挙行されますことは、私たち遺族にとりまして、誠に万感胸にこみあげるものがございます。


平和が甦ってすでに五十八年の歳月が流れ去りましたが、肉親を失いました私たち遺族の悲しみ、心の痛みは決して消え去ることなく、肉親の眠る地に参り、お会いできる日をどんなにか、待ち望んでおりましたことか。


今、祭壇に向かい静かに瞼を閉じます時、亡き皆様方のお顔が目に浮かんでまいります。在りし日の、あの優しかった皆様の声、幼児を残し戦場に出られたときのお気持ちを今お察しいたしますと、一層切ないものを感じます。戦争の悲劇さえなければ、 いつまでも楽しく語り合えであろうと思いますと、胸が一杯にになり涙が溢れてまいります。


私たち遺族が辿りました道は決して平坦なものではありませんでした。私たちは皆様方が生きて帰国されることをひたすら念願し、一日千秋の思いで待ちわびました。しかし、私たち家族の願いもむなしく、皆様方は異郷の地に倒れ、帰らぬ人となられました。


残された私たちは、つらく、苦しい日も幾度かありましたが、その度ごとに、 あなた方の尊い犠牲を何よりの教訓ととして、皆様方の肉親であることを心から誇りに思い、今日まで生き抜いてまいりました。これからも強く生き抜く覚悟でございます。どうかご安心下さい。


私たちは生命の尊さ、平和の大切さを身をもって体験いたしました。再び戦争の悲劇が繰り返されることのないよう、日本の自由と平和を守り、皆様方のご意志にお応えすることを、ここにお誓い申し上げます。


私たちは、御霊前に限りない思いを込め、心ばかりの品々をお供えいたしました。どうか故郷の香りと味覚を心ゆくまでご賞味下さい。


お名残はつきません。私たちはこれから日本に帰りますが、祖国日本の繁栄と私たち遺族の行く末をお守り下さるようお願いいたします。そして、とこしえに安らかにお眠り下さいますようお祈りいたしまして、追悼のことばといたします。


         平成十五年八月二十五日
          日本政府派遣ソ連抑留中死亡者ブリヤート共和国慰霊巡拝団
                      遺族代表     古沢 襄


<a href="http://www.kajika.net/">杜父魚文庫</a>

| 古澤襄 | 00:33 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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