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幻の碧き湖を求めての一生   古沢襄

真田の城下町・上田の北を望むと「太郎山」が聳えている。さして高い山ではないのだが、その途中に小学校(北校)が明治以降に建てられた。


明治四十三年生まれの母は北校から県立上田高等女学校に進学している。母の実母・静司、私にとって祖母に当たるが、残された写真をみても”上田小町”といわれた美形だった。


静司も北校から県立上田高女に進学していた。「幻の碧き湖」(筑摩書房 一九九二年)の著者・一ノ瀬綾も上田高女を出ている。


第一六回田村俊子賞の受賞作家・一ノ瀬綾が古沢真喜の伝記小説を書くきっかけとなったのは、真喜の次の一編の詩であった。


幻の碧き湖を求めて
涯しない人の世の砂漠をさまよいし
わが旅路の漸く終りに近づきたるか
六十路の半ばもすぎたるに
われ湖にいまだ巡りあえず
されど
いつの日か
そを見ることのあらんかと
されど、ああ        
あくがれの幻の碧き湖は彼方


「同人誌 星霜」作家だった真喜は、昭和四十九年七月号から自伝小説「碧き湖は彼方」を連載していた。しかし六回の時に脳血栓が悪化して、執筆ができなくなり、友人の池田源尚に「もう執筆できない」と伝え、ふるえる手で一編の詩を書いて渡したのがそれである。


真喜の病状が思わしくないと、池田源尚から伝えきいた和田芳恵は京都の銘菓を添えて病状を案じる手紙を金沢の病院に送ってきている。


この時の真喜の心境は次の二編の短歌に託された。


友います東都へかえる日はいつか
空しくすぎる日々を悲しむ


病む身にも心やすめる時のあり
思いたちしことしおわせし日は


金沢から横浜に戻った真喜は金沢文庫の病院に入院したが、孫の長女と次女が交代で看護に当たり、私が見舞いにいくと上田のことを語ってくれた。太郎山、北校、上田高女ことなど・・・。人は死期が迫ると郷里のことを思う。


昭和五十七年二月六日、真喜は静かに息を引きとった。享年72歳。


■書評「真田三代風雲録」  宮崎正弘 2013.01.04 Friday name : kajikablog


いまも国民に人気の高い武将は真田幸村だが、謀略のインテリジャンスの用兵の天才が三代続いたのが真田家。


<中村彰彦『真田三代風雲録』(実業之日本社)>


六文銭の旗が翩翻(へんぽん)と翻ると、強豪集団あらわるの印象があり、日本一の兵(つわもの)として敵から恐れられ、味方からも畏怖された。言うまでもないが、「六文銭」は真田家の家紋。


真田を「もっとも苦手」としたのは徳川家康であり、関ヶ原前哨線では中山道をいった徳川秀忠軍が、真田攻略に手間取って、天下分け目の闘いに遅参した話はあまりに有名だろう。


大阪の陣では家康本陣が真田幸村指揮の部隊に襲撃され、徳川側は肝を潰した。


真田家臣団は不抜の軍事力を誇った武田信玄の甲州軍学に学び、より実践的にしたもので、その強さを三方原の敗戦で家康はすでに経験済み、だからこそ天下を取ったあと、徳川は武田遺臣を大量に採用した。


幕末の佐幕派の多くは、この流れでもある。


真田城下は軍事都市、直線道路がなく、町並みは入り組んでおり、かつ突き当たりが多く、町衆から商家に銃撃の隠し口が備えられ、都市設計はまさしく軍事要塞。また巧妙なる軍事戦術、その用兵の卓抜さは天下無双と言われた。


わかりやすく言えば横綱にもどうしても苦手な前頭力士がいるように、徳川にとって真田は、いやな存在、苦手な武将である。


本書は、その真田の歴史を三代にわたり、詳述していくが、周囲に登場する武将は武田信玄、上杉謙信から始まって、伊達政宗、直江兼継、大谷刑部、石田三成、織田信長、豊臣秀吉、前田利家らが、ずらり出てくる。それも個性豊かに、その場では、豊かな表情が描かれる。いわば武将の往還図、信長、秀吉、家康の側面史ともなっている。


とりわけ合戦の場面は迫力満点、なるほど、図鑑やムックの絵解きでは知っていたが、文章で、これほど生き生きと戦闘場面が分かるのは、作者の円熟であろうか。


さて現在の長野県上田市には名城の遺構が残るが、さらに北へ進むと真田のひなびた村々が拡がる。過疎の農村地帯、ここに有名な砥石城があった。


評者(宮崎)は四半世紀前に、この砥石城跡を見学した折、突こつたる頂きに登ってみたことがある。それこそ急傾斜の絶壁、この城を攻めるには大変な労力が必要である。


ようやく石垣をロッククライムのように登攀すると台地が拓けるのだが、そこに家族連れのピクニック客の先客あって草むらにゴザを敷いて弁当を使っていた。


また本書の舞台となる川中島から春日山城、松本城、高遠城。甲府の躑躅館、北条氏が治めた小田原城と周辺の城々。白眉は高天神城跡などの殆どを評者も見学している。


本書にもでてくる武田VS北條氏の重要拠点だった高天神城は掛川から南下して、洞窟のような狭窄な崖をくぐると、コスモスが咲き乱れていた。


三十年ほど前だったか、時間がなかったので掛川からタクシーを雇って往復した。


評者は、なぜか各地の城を見学するのが好きで、北は五稜郭、松前城から南は島津のお城、沖縄は首里城まで、全国およそ二百城はまわったが、なかには本書にでてくる伊勢長島城も、長篠設楽が原も含まれる。


とはいえとうに廃城化された城跡、土に埋もれてしまった近代、中世の城跡は未消化である。


「何故?」と問われると返答に困ることもある。拙著『戦国武将の情報学』『伊達政宗の経営学』『トヨタ商法と徳川家康』など、いくつかの過去の作品があるので、その関連とおもって頂きたい。


 随分と脇道に逸れたが、この中村彰彦の新作長編小説の醍醐味は、読んで貰うことが一番、あまりに長いので三日ほどかかったが、とくに秀頼の籠城、九度山に流されていた真田幸村が立ち上がり、大阪城で後藤又兵衛らとの軍議、側近・大野治長との駆け引きや真田砦の建設、積極的攻勢ぶりなどが微に入り細に亘ってダイナミックに描かれる。


とりわけ真田のインテリジェンス戦略と戦術が文中に整然と織り込まれていて、これは読み方によっては現代政治のインテリジェンスに通じる。


おおよそ後年の空想的創作講談でしかなかった真田物語は空を飛んだりの、猿飛佐助トカ霧隠才蔵なんぞが活躍するが、実際の真実の歴史の進行はどうであったか、中村彰彦は幾多の歴史文書、資料、とりわけ新発見の文書などから、これまでにない事実をやや平然と並べ、1500枚の真田の戦闘記を脱稿した。


これは大変な労作である。


従来説を覆えすことは幾つも含まれるのだが、就中、豊臣秀頼の推定体重(1メートル90センチ後半、体重は140キロから150キロ)、これでは馬に乗れず、前線の視察督励が無理だったこと。


また関ヶ原前夜の真田の秀忠攻略で、徳川軍に2500の犠牲があっての大敗だったことが、これまで埋もれてきた史書から発見された。


<a href="http://www.kajika.net/">杜父魚文庫</a>

| 古澤襄 | 13:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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