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書評「柔道一如 柔道家高木喜代市」   古沢襄

<「柔道一如 柔道家高木喜代市とその周辺」 堀江朋子>(図書新聞)


人民文庫の二世たちも武田文章、武田穎介 松元真氏が亡くなり、いまは堀江朋子さんと私だけとなった。


堀江さんは昭和作家・上野壮夫の次女。同人誌「文芸復興」代表。「風の詩人 父上野壮夫とその時代」を1997年朝日書林から発刊して、それから五冊の著書を著している。


「風の詩人・上野壮夫」は力作だったので、2007年に杜父魚文庫で紹介した。「柔道一如 柔道家高木喜代市」も力作だが、講道館柔道の歴史を読み解くうえで必読の書となっている。


講道館柔道といえば、私たちは嘉納治五郎しか知らない。


明治15年(1882)5月に嘉納治五郎は講道館を創設している。治五郎23歳の春である。当時の柔道界では旧来の柔道を教える町道場も数多く、講道館柔道に反発もあった。


嘉納治五郎は、柔術という武道から危険な技を排除しつつ、柔術を人間形成の武道として‖琉薛⊇身勝負の三つは切り離せないものとして、講道館柔道を確立した。


明治27年(1898)に長崎で生まれた高木喜代市は、大正2年(1913)に大日本武徳会(京都)の進級試合に臨んでいる。すでに20歳未満選抜大会で優勝していたから柔道家として立つ決意をしていた。


しかし翌年の大正3年(1914)に講道館へ入門した。これについて高木喜代市は「私のほんとうの修行時代は、大正三、四年頃、いよいよ柔道家として身を立てようと決心して上京し講道館に入ってからということになる」と書き残している。


堀江さんの手法は綿密な調査にある。高木喜代市が旧来型の柔術に飽き足らず新しい講道館柔道に惹かれていく道程を多くの資料を読み解きながら示してくれた。それはまた”術”から”道”への転換が、日本の柔道の発展させたということである。


元来、小柄で体力のない高木喜代市という柔道家が、愚直なまで稽古に励み、終戦の日まで稽古が続けられた。


戦時中、東条首相暗殺計画に牛島辰熊九段が関わっていたことにも堀江さんはふれている。


戦後の柔道界と高木喜代市について、わざわざ一項目を立てている。柔道、剣道、弓道が進駐軍命令で禁止され、柔道部員がレスリングの練習をする世の中となった。


嘉納治五郎は海外への柔道普及活動に努める。講道館柔道と心中する覚悟の高木喜代市(当時八段)はスポーツ・芸能人の一座を組んで進駐軍の慰問活動をした。また週に一回、兵士たちに日本柔道の指導・稽古をおこなった。


まだ書き足りない点が多々あるが、講道館柔道の再生に賭けた高木喜代市九段という柔道家の一生を丹念に描いた堀江さんの作品は読みごたえがある。


■風の詩人・上野壮夫 堀江朋子 2007.05.19 Saturday name : kajikablog


ともかく書いてみようと思い立って、十数年が過ぎた。手さぐりで文献を調べ、人に逢い、父(上野壮夫)の書いたものを読み、何とか形になった。しかし意は通じているか、構成はどうかといったことから、独断や思い込みを克服して、父のことを客観視できたか、父の時代を理解できたかどうか、自信はない。


この間、私の物事を見るまなざしは、少しずつ変わっていった。私の年月の積み重ねの中で、人間の多面性や、物事の表裏、見えざる一面にも思いが到るようになった。しかし、それを文章として表わせたか、これもまた、自信がない。


私の今の微温的生活からすれば、激しい時代を生きた父。しかし父娘として日常の中でむかいあった時、父が自分の前半生を語ることは全くなかった。私も、父の生きた時間に思いを馳せることはしなかった。


父がこの世にいなくなって、共に過ごした日々への郷愁とともに、人の生命の時間のかけがいのなさを切実に思うようになった。父の暦を辿ってみたいと思いはじめたのもその頃からであった。それはまた、我が生への想いでもあった。父のことを書くことは、私自身の生を照射することであった。


その間、父と同時代を生きた人達も次々と鬼籍に入った。取材に応じてくれた父の中学時代の同級生関井仁氏、アナ・ボル論争の論敵小野十三郎氏、プロレタリア文学運動にともに係わった山田清三郎氏、佐々木孝丸氏、なめくじ横町時代からずっと親交を保った尾崎一雄氏、また中谷孝雄氏、「人民文庫」時代の田宮虎彦氏、古我菊治氏、石光葆氏、「文芸復興」同人の人達、そして「文芸復興」主宰の落合茂氏。


母の死は不意打ちであった。父のことを書いて欲しいと乞い、上梓を心待ちにしていた母。


 「私に何でも聞いて頂戴。記憶していることは何でも話すわ」
 「本の執筆はどのくらい進んでいるの」
 「あの出版社にあたってみたら」


折々の母の言葉が心に蘇る。この作品は、母への鎮魂賦でもある。


なお、この作品の中に、父の詩や文を多く引用した。文学全集等に収録されている父の詩は、プロパガンダ的なプロレタリア詩が殆どで、父の詩の本質を伝えるもの、良いものが知られていないのではないかという娘の思いからである。(杜父魚文庫より)


<a href="http://www.kajika.net/">杜父魚文庫</a>

| 古澤襄 | 11:57 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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