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親代わりになってくれた昭和作家たち    古沢襄

杜父魚ブログには文学愛好者の読者が多い。たまたま父と母が昭和作家だったので、折りにふれて文学ものも書いてきた。


そうはいっても文芸評論家ではないから、狭い範囲での身近い話題でしかない。


父・古沢元がこの戦争で三十九歳で戦病死したので、父の友人だった作家たちが親代わりになって私の面倒をみてくれた。


母と同郷の信州・上田出身の新田潤さんは、旧制上田中学(長野県上田高等学校)の先輩ということもあって足繁く通った。武田麟太郎が主催した「人民文庫」の同人でプロレタリア・リアリズム作家として活動、日本のゴーゴリといわれた。


東京牛込のわが家に田宮虎彦さんを連れてきて父や母に「いい小説を書く人」と紹介していたが、母は「まだ東京帝大の学生だった」と回顧している。大学を出て都新聞(いまの東京新聞)の文芸部に入った。


私が大学を出て共同通信社と東京新聞社の両方の入社試験に合格した時に、むしろ東京新聞社に行きたいと思ったのは田宮虎彦さんに憧れのようなものを感じていたからである。だが希望の文芸部ではなく外報部に配属になったので、三月末まで東京新聞にいて、四月から共同通信社に移った。


共同では仙台支社に配属となり、そこで大池唯雄さんに面倒をみて貰った。古沢元とは旧制第二高等学校文科の同級、「兜首」「秋田口の兄弟」の作品で第八回直木賞を受賞した。


大佛次郎さんが大池さんを高く評価して「上京して歴史ものの小説を書きなさい」と薦めたが、「仙台こそが歴史ものの宝庫」といって断った。


上京するとわが家に泊まり、二階の書斎の窓を開け放ってウチワをバタバタさせながら、古沢元と歴史小説談義に熱中していた。母にいわせると「大池唯雄も古沢元も変わり者」ということになる。


仙台の目抜き通りにあった幸福堂というレストランでチキンライスをご馳走になった。大池さんは宮城県柴田郡船岡町の公民館長をしていたが、会うなり「いつまで新聞記者をしているのです。身軽になって小説を書きなさい」と言われて面食らった。


■大池唯雄さんと古澤元の交友を語る一文が、一九六六年七月九日の河北新報に「亡友の写真に思う」という表題で出ている。この四年後に大池氏は亡くなった。


<世にはまことに思いがけないことがある。そのころまだ現在ように有名でなかった土門拳氏が撮影した亡友の写真を送られて、私はつくづくとながめ、ただなつかしいというばかりで、深い感慨にうたれている。


古沢元については、私は語るべきことがあまりにも多く、回答に苦しむのである。二高では同級生で、文学グループであったが、彼は左翼運動のために中退し、上京してナップ(全日本無産者芸術団体協議会)の機関紙「戦旗」の編集などをやっていた。この雑誌は間もなくつぶれたが、一方、作品も発表して、新進作家として認められはじめていた。


池田源尚、倉光俊夫、古沢元の三人で「麦」という同人雑誌をやっていたが、池田がまず当時の「文藝」に当選し、倉光が芥川賞になり、古沢が直木賞候補になったこともあった。私は当時、療養中であったが、たまに上京するとこの古沢の家に泊まった。


私はある雑誌に当選したが、これが大佛次郎氏の目にとまって、その推薦で「新青年」に書きはじめていた。大佛氏から会いたいという手紙をいただき、胸を躍らせて上京したときも、古沢の家に泊まったが、「人民文庫」を主宰していた武田麟太郎氏に会ったのもそのときであった。


盛夏のことで、丸はだかにサルマタひとつで、二階で原稿を書きながら、武麟さんは私と話したが、そのときの印象は強烈である。


古沢は端正な風ぼうの持ち主で、まれにみる美青年であった。盛岡中学時代は剣道の選手であり、二高に入学するときにはクラスで二番の秀才で、特待生として岩手県から奨学金を受けていた。


いま生きていたら、むろん作家として相当の地位を築いていたろう。ある雑誌で高見順氏が彼のことを非常にほめているのを読み、遺児の古沢襄に知らせてやったことがある。「父がこんなに高く評価されたのを見るのは、はじめてです」といってきたが、その高見氏もなくなってしまった。


時代を最も象徴的に生き、むなしく異郷に死んだ旧友の生涯を思えば、私の心腸も熱する。彼に恥ずかしくない作品を残さなければならないが、私はまだ書きあげていない。いまにもその声が聞こえてきそうな旧友の写真を前にして、人間の一生を思い、生命の尊さを思い、また人はいかにして生きなければならないかを思う。


古沢よ、もう一度文学を語り合いたい。もう一度肩をならべて東一番丁をあるいてみたい。>


大池さんが言った高見順さんだが、仙台から東京本社に転勤になって母に連れられて北鎌倉の高見さんの家に行った。妻との結婚に際して仲人をしてくれたお礼だったが、高見さんは武田麟太郎さんの遺児である文章さんや穎介も来ていると言っていた。


後に分かったのだが、旧制第一高等学校の同級生が共同の役員になっていたので「古沢襄は昔の文学仲間の遺児なのでよろしく」と頼んでくれていた。


高見さんは近代文学の資料の散逸を防ぐため、日本近代文学館の建設に尽力したが、落成間近に食道癌で亡くなった。享年五十八歳。


高見さんがいよいよダメらしいと知らせがあって母は「さんざん世話になったのだから、病院に行きなさい」と言った。


千葉の病院に行ったら、共同文化部の先輩記者が二人いて「病室の様子を教えてくれ」と頼まれた。1965年8月のことである。


控え室に顔をだしたら秋子夫人が「襄ちゃんは記者としてきたの」という。「いえ、仲人をしていただいた者のつもりです」と答えたら「病室の高見に会いなさい」と許してくれた。


病室の高見さんは北鎌倉で会った生気と矜持に満ちた姿ではない。大手術をして闘病生活が長かったせいもあるが、痩せ細った姿は秋子夫人も他人には見せたくない気持ちが分かる。


母は前年の暮れに北鎌倉で高見さんと会っていた。その日の日記で<高見さんは大手術の後だから当然かもしれないが、頭は白髪が増え、あんなに生気と矜持にみちみちて、憎いほど照り輝いていた顔は、無精ひげがばらばら生えて、頬からあごにかけての筋肉がゆるんでいた。


今日ほど人生の無常を強く感じさせられたことはない。一日も早くもと通りの身体になってもらいたいと願う。何といっても高見順は、現代の日本の文壇で数少ない真の”文士”の一人なのだから・・>と書いた。


8月17日に高見順死去。


人民文庫の遺児たちも武田文章、穎介兄弟、平林彪吾の遺児・松元真が亡くなって、上野壮夫の次女・堀江朋子と私だけになった。まだまだ書いておきたいことがあるので、記憶をつなげて残しておきたい。


■二月二十六日(午前七時現在)トップ5


〆邁箸脇運融錣忙臆辰靴峠す圓鮴僂爐里主流    古沢襄
∪鐐茲覆蕁崟こμ破粥廖   仝殿襄
ロシア、過激組織ISの中央アジアへの拡散を警戒  古沢襄
ぁ岾川賞なら受賞してやるが、直木賞ならいらない」 古沢襄
ソ近平の軍師的側近は七名    宮崎正広
 

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