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東アジア安定と繁栄の要、インドネシア    西村眞悟
実は、インドネシアについて書くのは二度目である。しかし、一度目は日の目を見なかった。どういう訳か分からないが、操作ミスをした覚えがないのに、せっかく数時間をかけて書き上げた文章が、突然に画面から消えてしまったのだ。がくっと、疲れがでた。しかし、気力をふるってもう一度書き込むことにする。

それほど、インドネシアは我が国にとっても、アジアにとっても、重要な国だと思って頂きたい。

我が国から五千キロ南下した赤道上に東西五千キロにわたって広がっている人口二億の群島国家がインドネシアである。

この度のインドネシア大統領選挙において、スハルト時代の戦略予備軍司令官だったプラボォー・スビアントを、貧困家庭に生まれたジャカルタ特別州知事のジョコ・ウィドドが、接戦の末に破って大統領に就任する。

産経新聞の千野境子論説委員は、プラボォー候補がジョコ候補に肉薄した理由を、国民の根強い「スハルト・ノスタルジー」にあるとしつつ、にもかかわらず、彼が貧困家庭出身のジョコ候補に敗れたことは、結局、時代はインドネシアをスハルト後の次の段階へと向かわせているのではないだろうか、と報告している(産経新聞、26年7月26日)。

プラボォーは、スハルト大統領の娘婿で、義父のスハルトが大統領になったときと同じ戦略予備軍司令官の地位にあった。

私は、1998年5月21日のスハルト大統領退陣表明の日に、インドネシアの国会議事堂前でプラボォーが指揮する大勢の戦略予備軍兵士達に遭遇した。

その数日後に、各所の放火の煙が漂うジャカルタ市内で、産経新聞の千野さんに会って情況を聞いた。彼女は、略奪の騒乱下にあったジャカルタに留まって取材していたのだった。

その千野さんがあの時のプラボォーのことを書き、「スハルト・ノスタルジー」が過ぎ去っていったと報告する記事を感慨深く読んだ。

昨年の一月十六日にアルジェリアのイナメナスにおいて十名の日本人石油技術者が、イスラム過激派に襲われ殺害された。

その時、安倍総理は、インドネシアにいた。そして、演説の予定を変更して早々に帰国した。

しかし私は、安倍総理は、インドネシアに留まってイスラムの長老に会い、アルジェリアと北アフリカの情報提供とアルジェリア政府に対する安倍総理の要望の伝達を強く要請すべきであると書いた。

インドネシアは最大のムスリム国家であり、ムスリムの情報網は国境を越えて確実に伝って先方に影響を与えるからである。それはかつて、バチカンを中心とするカトリックの情報網がCIAを凌ぐものであったことと同じだ。

さらに、インドネシアは、独立と建国の経緯からして親日的でムスリムの長老は、安倍総理の父や祖父の岸信介氏のことをよく知っていて確実に協力してくれると思ったからだ。

インドネシアは、三百年にわたってオランダの植民地であった。

しかし、昭和十六年十二月から翌二月にかけて、日本軍は五十日間で瞬く間に英国が支配するマレー半島を制圧し、十七年二月十五日、シンガポールを陥落させ、三月九日、ジャワのオランダ軍は日本軍に降伏し、インドネシアはオランダの植民地支配から脱却する(以上の作戦と、ビルマのイギリス軍制圧を南方作戦と総称している)。
 
その三年後、日本が大東亜戦争に敗北した二日後の昭和二十年八月十七日に、インドネシア初代大統領のスカルノと同志のハッタは、ジャカルタにおいて、インドネシアの独立を宣言する。

その独立宣言の年を、彼らは西暦ではなく我が国の皇紀で書いた。即ち、皇紀2605年8月17日、「05、8、17」と署名したのである。
 
その後、植民地支配を復活させるために、オランダとイギリス軍がインドネシアに侵攻してくるが、二千名近い日本軍将兵が、日本に帰還せず、インドネシア独立のために、日本軍の武器弾薬を提供して、インドネシア独立義勇軍を指揮して闘った。日本軍は、インドネシアの為に、ペタ・インドネシア独立義勇軍を創設してインドネシア青年を育てていたのである。

このように、インドネシアは、独立と建国の歴史から、必然的に親日国である。

そのインドネシアの最大の危機は、1965年9月30日の9・30事件である。これは、インドネシアはもちろん、インドシナ全域と日本にとっても最大の危機だったと言える。

容共路線のスカルノ大統領の下で急成長したインドネシア共産党は、この日、軍事クーデターを起こし、ナスチオン国軍総参謀長を襲い、軍司令官ら数名を殺害して放送局を占拠し、一時首都ジャカルタを制圧する。

しかし、戦略予備軍司令官のスハルト少将は、反撃に転じ、クーデターを潰す。そしてスカルノから治安維持の全権を移譲されて、徹底的に共産党を追撃し、その成果を引っ提げて大統領に就任する。

彼は、日本軍が創設したペタ・インドネシア独立義勇軍出身だった。

第二代の大統領スハルトは、経済の立て直しと共産主義の浸透を防ぐ為に、アセアン同盟の結成に乗り出す。現在は、共存共栄のためにあるアセアンは、創設時は防共の為にあった。

仮に、9・30クーデターが成功して「共産インドネシア」が誕生しておれば、翌日の十月一日、中国共産党の毛沢東と周恩来は、北京の天安門で「共産インドネシア」の誕生を宣言したであろう。そして、北の中共と南の「共産インドネシア」に挟まれたインドシナ全地域が、中共の掌中に入って赤化し、全域が中共とポルポトに支配されたカンボジアのような惨状に落ち込んでいたと思われる。

アジア最大の悲劇ではないか。そうなれば、日本の運命も大きく狂っていた。まことにスハルトは、アセアン諸国と日本の平和と繁栄のための最大の功労者であった。

そのスハルトは、ペタにおいて日本軍の訓練を受け、四十七歳で大統領に就任した際、沼津に住むペタの教官であった土屋大尉に電話して、「教官殿、私は大統領になりました」と報告している。

それから二十年後、1998年5月21日、長期政権とアジア通貨危機による経済の疲弊、そして、華僑による経済支配への不満の中で高まった大学生の大規模な反政府デモと民衆の暴動の中で、スハルトは大統領退陣を表明する。

その退陣の報を、私は、成田からジャカルタに向かう日航機の中で、機長のスハルト退陣表明という機内放送によって知った。

大きな日航機の乗客は私とインドネシアラヤ主宰の中島愼三郎さんともう一人の三人だけだった。

降り立ったジャカルタ空港に灯りはなく、薄暗い構内を通って外に出ると、中島さんのインドネシア人の同志が迎えに来てくれていた。そして、車に乗り学生が占拠する国会議事堂に行った。ジャカルタが近づくにつれて焦げ臭い匂いが漂っていた。
 
国会議事堂周辺は異常な光景だった。学生が議事堂を占拠していた。その議事堂をプラボォーの戦略予備軍の兵士が包囲していた。

その戦略予備軍をウイラント将軍の率いるマリーネ(海兵隊)が、戦車数台を繰り出して包囲していた。そして、「マリーネは、学生を守る」と書いたプラカードが立てられていた。

つまり、プラボォーが学生を攻撃しようとしており、ウイラントのマリーネが、それを阻止するためにプラボォーの軍隊を包囲して攻撃しようとしていたのだ。内戦の寸前の情況だった。

中島さんは、八十歳になっていたが、実戦経験のある帝国陸軍の下士官でマレー語の通訳だったから、平気で兵士の自動小銃の乱立する中をくぐって国会の周辺に入った。私もそれに同行して自動小銃の林を抜けて国会の横に行ったが、このようなとき、実戦の経験が如何に役立つかを悟った。

それから、ジャカルタ市内に入り、放火による煙の匂う中で千野境子さんに会ったのだった。従って、プラボォーと千野境子さんは、スハルト退陣の騒乱のジャカルタとともに記憶に残っている。

さて、インドネシアの歴史の概観と私の体験を書いたのは、インドネシアと我が国の不可分の歴史を実感してもらいたいからである。

アセアンの安定は、インドネシアが要であり、これが日本にも重大な影響を与える。

そして、かつて中共を策源地とするアジアの共産化運動に対する防波堤がインドネシアを中心に構築されたアセアンであったことを振り返るならば、現在の中共の中華帝国主義と軍事的覇権主義に基づく南シナ海とアセアンの海に対する侵略を跳ね返す自由なアジアの連携の構築も、我が国とインドネシアを中心に構築されるべきことは歴史の必然である。

このことは、スハルト時代から次の段階に入ったジョコ新大統領の時代になっても、インドネシアの将来の為に変わることはない。

このような、アセアンとインドネシアは、戦略上、我が国の大切な隣接地域である。

しかしながら、我が国の関心は、今まで、主に中共やアメリカに向けられてきて、アセアン諸国に対する関心は薄かった。ところが、関心が薄かっても、関係は良好に保たれてきた。

その理由は、関心が薄かっても、戦後の我が国は、戦前の我が国の「南方作戦」の輝かしい成果の遺産を無意識に享受していたからである。

しかし、インドネシアに今までの段階を超えた新しい大統領が出現したことでも明らかなように、時代はいやおうなしに「次の段階」に入っているのである。
 
従って、我が国のこれからの国家戦略外交は、今までのように「南方作戦の輝かしい遺産」に寄りかかるのではなく、歴史と地政学的関係と敵は何処かという厳しい考察を経た上で、積極的かつ自覚的に展開されねばならないと感じる。

そして、これを為すためにまず第一にしなければならないことは、自らを戦後の自虐史観から解放することである。

その為に、「南方作戦の地」即ち「現在のアセアン地域」は、絶好の学習地域だ。従って、教育者は、修学旅行の地を、台湾およびインドネシア・アセアンに定めるべきである。

杜父魚文庫
| 西村眞悟 | 09:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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