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”糸”で”縄”を買った沖縄返還交渉   古澤襄
■田中角栄通産相の起用で救われた佐藤元首相

環太平洋連携協定(TPP)をめぐる日米交渉が、座礁しかけている。通商交渉の専門家や市場関係者からは、米国が100%関税撤廃要求を棚上げし大幅譲歩を示したにもかかわらず、日本側が農業分野の関税引き下げ幅にこだわり過ぎたとの指摘が出ている。

「あの当時は皆、若かった」・・・TPPをめぐる日米交渉が難航している様をみながら、同じように難航を重ねた沖縄返還交渉を振り返っている。すでに半世紀に近い昔の話となったが、福田赳夫氏を囲む担当記者団で牢名主格の古株だった屋山太郎氏、渡部亮次郎氏と私の三人は赤坂プリンス・ホテルの旧館に陣どって角福戦争の行方を追う毎日であった。

岸元首相の知己を得ていた私は、赤坂プリンス・ホテルに日参するかたわら御殿場に隠遁していた岸さんの別荘に日曜日になると朝から遊びに行っていた。沖縄返還交渉は弟の佐藤首相とニクソン大統領が、表役者の形だったが、佐藤・ニクソンの関係は必ずしも良くない。むしろ悪かったと言っていい。

それに比して兄の岸さんとニクソンの関係は”刎頸の友”という信頼関係で結ばれていた。不遇時代のニクソンを大切にしていた岸さんだったから、沖縄返還交渉で岸元首相の果たした役割は大きい。だが、その信頼関係をもってしても、ニクソンの壁は厚く、交渉は難航を重ねた。

つまりは、沖縄返還という外交交渉の裏面でニクソンは”1ドル・ブラウス”に代表される安い日本製綿製品の輸入阻止にこだわった。ことは外交交渉ではなくて、ニクソンは選挙区という内政事情を重くみていた。

TPPをめぐる日米交渉と沖縄返還交渉はことに性質は異なるが、オバマ大統領はニクソンと同じように内政事情にこだわりをみせている。

この厚い壁を突破したのは、田中角栄通産相であった。日米ともに農業団体という厳しい圧力・国内事情を抱えている。渡部亮次郎氏は「糸で縄を買った」と回顧している。角さんならでは出来ない突破策でニクソンの壁を乗り越えた。

佐藤首相はアメリカのサンクレメンテ島でニクソンとの日米首脳会談を行ったが、米側は田中通産相を高く評価して福田外相の影は薄かった。角福戦争はこの瞬間に角さんの勝利で終わっている。

■糸で縄を買った 渡部亮次郎

第2次世界大戦終結後、世界経済はアメリカのリーダーシップの下で、貿易と為替の自由化を強力に進めていた。敗戦国日本も、アメリカの庇護(ひご)の下で戦後復興と国際社会への復帰をめざしていた。

このような状況下で日本のアメリカ向け輸出は急増し、繊維、雑貨類、金属製洋食器などで最初に対米輸出自主規制をおこなわなければならなかった。

とくに繊維については、1ドル・ブラウスに代表される安い日本製綿製品により、アメリカ繊維産業が大きな被害をうけたため、日本は1956年(昭和31)1月から輸出自主規制を行った。

62年1月には綿製品の国際貿易に関する短期的取り決め(STA)、ついで63年1月には長期的取り決め(LTA)が結ばれた。しかし、この頃はまだ貿易摩擦という程ではなかった。

その後、1960年代後半には日本の貿易収支の黒字基調が定着し、繊維の対米輸出は次第に最初の日米貿易問題として顕在化してきた。貿易摩擦の対象品目は綿製品から毛製品、化学繊維製品に移り、これら3品目の日米間取り決めの1本化がはかられた。

当時の佐藤栄作内閣には戦後のどの内閣も成しえなかった悲願があった。沖縄返還である。敗戦によりアメリカに占領されたままの沖縄を外交交渉により返還させることは佐藤内閣の公約であった。

一方、アメリカ(ニクソン大統領)にも悲願があった。1ドル・ブラウスに代表される安い日本製綿製品の輸入阻止である。

このため佐藤首相は担当する通産大臣に大平正芳、宮沢喜一と自らは強力と信ずる有力者を配したが一向に解決しなかった。時あたかも自身の後継をめぐって福田赳夫と田中角栄が熾烈な戦いを水面下で展開していた。

佐藤としては田中は派閥を任せてきた側近ではあるが「なにせ小学校卒、教養が無い。そこへ行くと福田は東大での切れ者。後継者は福田」とハラに決めていた。

そこで昭和46(1971)年7月5日の第3次改造内閣では福田には貫禄付けを狙って外相を与えたが、田中には難問中の難問が控えている通産大臣を与えた。私は田中に恥をかかせて後継を一旦は諦めさせようとしたのだと思った。私は勝ち馬(の筈の)福田の担当だった。

ところが福田には運が無かった。党内支持の頼りとした参議院議長重宗雄三が議長4選工作をしている頃、胆石手術のため入院。重宗は手も無く4選断念に追い込まれた。田中は参院自民党の多数派工作を堂々と進めることができた。

田中は大平や宮沢とは頭の構造が違っていた。彼らは日米繊維交渉を外交交渉と見ていたが、田中は単なる困りごとと判断。予ねてから子飼いにしてきた大蔵官僚と密かに話をつけ、問題をあっという間に解決してしまった。

それは2000億円で福井県などの織機を買い入れて潰すというもの。大平や宮沢、ひいては佐藤も考えの及ばなかった発想だった。田中は就任3ヶ月目の10月15日には米大統領のケネディー特使と日米繊維協定の了解覚書に仮調印するという早業だった。

おかげで沖縄返還も本決まり。佐藤がアメリカのサンクレメンテ島での日米首脳会談に福田、田中の両閣僚を伴って出席、何とか後継総裁選挙への出馬断念を田中に説得しようと試みた。

しかし、ニクソンが田中をあからさまに優遇。ニクソンとしては当然の措置だった。また田中も佐藤に隙を与えなかった。田中は福田にすでにして勝ったのである。

角栄と福田の佐藤後継争いは「角福戦争」とまで言われたが、勝負を決めたのは後に言われる「金権」だけではなかった。東大出は持ち得ない柔軟な発想と的確で強力な行動力。福田にはこれが無かった。カネが角福戦争を決めたのではない。福田を取材していてつくづく思ったことである。

佐藤は糸(日米繊維交渉の決着)で縄(沖縄返還)を買ったといわれノーベル平和賞を受賞した所以。だからこそ福田を後継者にと言う構想は夢と消えた。縄は角栄のお蔭、ノーベル賞も角栄の陰である。

更に言えば、だからこそ後年、福田は大平と「2年」と言う密約まで交わして総理になりたかったのだ。あのままでは死んでも死に切れなかったろう。(杜父魚ブログ 2007.07.06 Friday name : kajikablog)

■裏面史・沖縄返還交渉 古沢襄

佐藤栄作元首相が沖縄の施政権返還を政権の中心課題にしたのは、何時の時期か、については諸説がある。具体的には池田内閣時代の1964年7月の自民党総裁選挙で立候補した佐藤が記者会見で「自分が政権を担当したら、アメリカに対し、沖縄を日本に返還してくれるよう正式に要求する」と初めて発言した。

だが、当時のマスコミからは、この沖縄返還の佐藤発言は無視されている。佐藤の思いつき発言と取られた。将来は沖縄返還が日米間の外交課題になるという認識は、マスコミも持ってはいたが、それは遠い将来のことである。唐突な佐藤発言について外務省も冷淡であった。

これに先立つ一月十五日に「佐藤オペレーション」と称する秘密チームが愛知揆一議員(自民党憲法調査会長)をキャップにして四人の新聞記者が参加して東京・グランドホテルで初会合をもった。

新聞記者は楠田実氏(産経新聞→佐藤首相の首席秘書官)、笹川武男氏(産経新聞)、麓邦明氏(共同通信→田中角栄秘書)、千田恒氏(産経新聞)で、佐藤政権の政策造りのチーム。学界、官界、財界からも折りにふれてメンバーとして参加して貰い、総裁選の二週間前に「明日へのたたかい」と題する二万語の政策綱領をまとめた。

この論議の過程で笹川武男氏は「これまでの日米首脳会談の中で、沖縄問題が話し合われたが、日本政府が米国政府に対して、正式に要求したことはないのでないか。佐藤さんは、自分が政権を担当したら、米政府に対し沖縄返還を正式に要求する、と言うべきではないか」と注目すべき発言を行っている。

外交問題を政争の具にはしたくないという佐藤の意向もあって、政策綱領から外されているが、それを記者会見で表明する手法をとった。1964年11月9日に佐藤が政権を担当すると沖縄問題に本格的に取り組んだ背景は、池田三選に挑戦した時に萌芽があったとみるべきであろう。

この「佐藤オペレーション」は佐藤内閣の誕生で役割を終えたが、首席秘書官となった楠田実氏の周辺にあってブレーン的な役割を持ち続けている。麓邦明氏は田中角栄氏の政策ブレーンとなり、「都市政策大綱」や「日本列島改造論」の提言者となった。

佐藤の対米交渉は決して平坦な道ではなかった。池田が試みた日本政府による経済・財政支援額の増加という”外濠攻め”とて米側の猛烈な抵抗に遭っている。まして施政権の返還という”本丸攻め”なのだから、池田が受けた抵抗の比ではなかった。米側には沖縄上陸作戦で、米兵一万二千の血で占領した沖縄という論理がある。さらには米極東戦略の要となる核基地の島と化していた。

日本側には六万の将兵と県民十六万が犠牲となった悲劇の島を一日も早く復帰させたいという悲願がある。1951年のサンフランシスコ平和条約でも第三条で日本の沖縄に対する潜在主権が明記されている。岸アイク首脳会談の共同声明でも日本の潜在主権が再確認された。

佐藤は1965年1月に訪米しジョンソン大統領に対して沖縄の早期返還を求めた。この時の共同声明は二つの意味で注目すべき点がある。琉球及び小笠原群島における米国の軍事施設が極東の安全のために重要だと日米首脳が認めた。

沖縄の米基地の撤去を求めるかぎり沖縄の施政権は永久に戻らない。基地の存在を認めて早期に施政権の返還を実現する現実的なアプローチを選択している。

もう一点は米側が飲み安い小笠原諸島の返還を先行させて、それをモデルにして沖縄返還を求める二段階の手法を使った。”待ちの政治家”と評された佐藤にしては、沖縄返還ではまったく違う積極的な顔をみせている。だが、これは対米交渉の困難さを知り尽くしている外務省との乖離を招くことになった。

あえて言うなら佐藤周辺からは見えない面だが、ニクソン大統領になって返還交渉が具体化すると実兄の岸元首相がかなりの役割を果たしている。佐藤・ニクソンの関係は必ずしも良好なものではなかったが、親しい関係にあった岸・ニクソンによって、交渉が促進されている。岸・ニクソンの関係がなければ沖縄返還は実現しても、かなり遅れたと指摘する識者もいる。

さらに言うなら官房長官から降格して保利官房長官の下で官房副長官になった木村俊夫氏の役割も大きいといえる。木村氏は沖縄シフトの官邸にあって中心となって佐藤を助けている。首相の諮問機関として発足した「沖縄問題懇談会(座長・大浜信泉元早大総長)」と、その中の「基地問題研究会(座長・久住忠男氏)」を動かして、外務省ルートとは違う佐藤直結の別ルートを動かした。

結果として外務省ルートと官邸ルートの二元外交になったそしりは免れないが、佐藤主導の沖縄返還交渉は、木村ルートに拠るところが大きかった。沖縄返還のデッサンは、このようにして姿をみせることになる。とはいえ道のりは険しく、多難であった。

1969年4月1日に岸元首相は、実弟の佐藤特使としてワシントンで行われたアイクの葬儀に参列し、ニクソン大統領と会談した。儀礼的な会見というよりは、沖縄問題に絞った重要会談となった。

<各国代表とニクソンは会談した。岸はその一連の表敬会談の最期の順番を希望した。ニクソンと会談した四十五分間にうち四十分は沖縄問題を話し、おれ(岸)ですら核抜き返還であるべきだと(思うと)ニクソンにいった。日本の国民感情にある核への大きい抵抗を強調したら、ニクソンはうーんといっていて黙ったままだった>(岸と会った末次一郎基地問題研究会事務局長の証言)

これについて楠田首席秘書官も「ニクソン大統領は、ホワイトハウスで旧知の岸さんを手厚くもてなした。沖縄返還についての、岸さんの言葉に耳をかたむけ、帰りは、わざわざ車のところまで見送る配慮をみせ、佐藤総理の訪米をお待ちしている、と語った」・・・と証言している。

基地問題研究会の末次事務局長は、木村官房長官の人選によるものだが、メンバーに若泉敬京都産業大学教授が加わった。キッシンジャー秘録で「ミスター・ヨシダ」のコード・ネームで出てくる佐藤密使。キッシンジャーのコード・ネームは「ドクター・ジョ−ンズ」。若泉氏はニクソン政権以前から佐藤の命を受けて、屡々渡米し沖縄問題に関する米側の動きを探って佐藤に直接、報告していた。佐藤に若泉氏を紹介したのは福田赳夫氏だとする説もある。

若泉氏は楠田氏に「自分が沖縄問題に(深く)かかわったことは、生涯の秘密にしてくれないか」と頼んだ。楠田氏もこれを守った。しかし1994年になって「沖縄返還と自分のかかわりを(文藝春秋社から)出版する」と断りを入れてきた。

沖縄返還交渉で「核密約」といわれる日米合意議事録は、若泉氏の著書「他策ナキヲ信ゼムト欲ス」で明らかにされた。その内容は若泉氏によれば次のようなものである。

米国大統領「沖縄が日本に返還されるまでに、沖縄からすべての核兵器を撤去する。しかし極東諸国の防衛のため、重大な緊急事態が生じた際には、日本政府と事前協議の上で核兵器を沖縄に再び持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とする。事前協議では好意的回答を期待する。沖縄に現存する核兵器の貯蔵地、すなわち熹手納、那覇、辺野古などの基地をいつでも使用できる状態に維持し、重大な緊急事態の際には活用できることを必要とする」

日本国総狸大臣「日本政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要を満たすであろう」

「ドクター・ジョ−ンズ」と「ミスター・ヨシダ」の裏交渉が秘密裏に始まったのは、岸・ニクソン会談の年(1969年)の七月だったという。両者はコード・ネームでワシントンと東京間の電話交渉も行われた。

国務省や外務省という官僚機構を使わない大統領と総理大臣のチャンネルとなった「ドクター・ジョ−ンズ」と「ミスター・ヨシダ」の裏交渉は、それなりの効果をあげたのだが、後に「ドクター・ジョーンズ」ことキッシンジャーの不信を招き、佐藤・ニクソンの関係にも影響を及ぼした。

沖縄返還交渉は「縄と糸」の関係にあった。ニクソンの選挙地盤は人件費が安い日本の繊維製品の輸出で打撃を受けていた。日米繊維摩擦が政治問題化していたので、キッシンジャーは沖縄の核貯蔵権利に固執しない見返りに繊維問題で日本が譲歩することを迫った。

「ミスター・ヨシダ」こと若泉氏は、佐藤にそれを伝えたが、日本国内では輸出抑制で打撃を受ける繊維産業の救済という大きな政治解決が必要になる。繊維業界のみならず大蔵省や通産省の官僚機構、業界関連の自民党議員を巻き込んだ解決策がおいそれと出る筈がない。

若泉氏は「秘密交渉の場で繊維問題を解決するわけにいかない」とキッシンジャーの申し入れを蹴る結果となった。これによって難航していた日米繊維交渉はさらにこじれてしまった。大平通産相、宮沢通産相で解決できなかった日米繊維交渉は、田中(角)通産相が登場して、二千三百億円の政府救済資金を決めて解決するまで難航を重ねている。


1971年7月15日、ニクソンは電撃的な北京訪問をした。米政府から日本政府に通告してきたのは、発表の15分前。ニクソン・ショックは佐藤政権を直撃している。これに先立ってキッシンジャーは、ひそかに北京入りして、ニクソン訪中のお膳立てとなる米中秘密交渉を行っているが、周恩来に日本のことを「ジャップ」と呼んでみせたり、日米安保条約は日本に核を持たせない条約だと説明したという。江戸の敵を長崎で討ったのかもしれない。(杜父魚ブログ 2007.03.25 Sunday name : kajikablog)

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2013年度(13年4月1日〜14年3月31日)、沖縄タイムスのオピニオン面に掲載された一般投稿は計2316本(「主張、意見」1550本、「論壇、寄稿」409本、「茶のみ話」357本)です。

投稿者年齢別の投稿数
10代  31  1.3%
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50代 225  9.7%
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70代 707 30.5%
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第6位 比嘉寛  (84)那覇市  32回
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第9位 幸地忍  (69)八重瀬町 27回
第9位 町田宗順 (72)沖縄市  27回
| キン坊 | 2014/04/25 4:17 PM |
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