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日本の戦争はインド独立を助けた    古森義久
第二次大戦での日本のアジア、太平洋での軍事行動はアジアの解放の意義があった――

以上の見解を日本人が語れば、「軍国主義者」とか「保守反動」だとして、悪魔扱いされるのが日本の現実です。いやいわゆる国際社会での常識だったともいえるでしょう。

しかし次の一文を読んで、びっくりし、感動しました。

日本で生まれ育ったインド人の女性が戦争の最中から日本の戦争行動はインドでのイギリスの植民地支配の抑圧をはね返し、インドの独立、解放を目指す意義があったと明言しているのです。しかもその女性は戦時中、日本軍と行動をともにする軍人として志願し、戦地にも出かけていたというのです。

日本経済新聞の11月4日朝刊に掲載された寄稿です。

日本育ちのインド女性が日本軍とともに戦うために出征し、イギリス軍を敵としたというのです。一人でも多くの日本人に読んでほしい一文です。

■日本にいたインド独立の志士・バーラティ・アシャ・チョードリさん

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インド独立の志士 朝子
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日本育ちの少女だった私はボースに傾倒、出征した。「新しく 生まれ変わりて 一兵と なりたまりしも 心淋しき」

太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった1945年3月、17歳の時に詠んだ歌だ。詩や文学の世界に浸り「おセンチ」と呼ばれていた少女が、恐怖を振り払い「インド独立の志士」であろうと葛藤している。あのころの自分を抱きしめたくなる。

■圧政に苦しむ祖国思う

私は28年、神戸で生まれた。両親はインド人。「希望」という意味のヒンディー語で「アシャ」と名付けられたが、「朝子」と呼ばれて育った。神戸の小学校 を卒業後、東京に転居。昭和高等女学校(現昭和女子大)2年の時、インド独立運動の指導者チャンドラ・ボースが結成したインド国民軍に身を投じた。冒頭の歌はその時のものだ。

父アナンド・サハイはボースの側近で23年から神戸に身を寄せていた。当時、インドは英国の植民地。国民は圧政と搾取に苦しんでいた。「非暴力・無抵抗主 義」を掲げるマハトマ・ガンジーとたもとを分かち武力闘争を掲げたボースの招請を父は画策。偽装離婚した母をコルカタにいたボースの元に秘密裏に送り、訪日を促した。

戦時下の我が家は日本の家庭そのもの。日本人と同じ配給を受け隣組にも参加した。薄いおかゆをすすり、モンペをはいて登校。千人針を縫い、家族で戦勝祈願の神社参りもした。母はカレー用の豆や小麦粉を防空壕(ごう)に隠し、多忙な父がたまに家にいると、祖国の料理をふるまった。

空襲の時は防空壕から日米の空中戦を眺めた。日本の戦闘機が撃たれ、操縦士が白いハンカチを振りながら散っていくのが見えた。「祖国のためにあんな風に死ねたらいいね」と妹と話した。

■病み上がりで終戦迎え

ボースの来日は、私たちに新しい生命を与えた。初めて彼に会った日、私はインド式に礼を尽くしその足先に手を触れた。これがいけなかった。「我々は150年前から奴隷のように頭を下げているのに、まだ下げ続けるのか! 独立するまで誰にも頭を下げてはならない」と雷を落とされた。この日から、妹との挨拶も 国民軍の合言葉「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」になった。

私に出征を決意させたのは、44年3月に始まった日本軍とインド国民軍による「インパール作戦」だ。インド北東部で両軍が共闘し英軍攻略を目指した。居ても立ってもいられず、私たち姉妹は入隊をボースに志願。すると「花のような娘たちが戦えるのか」とからかう。ムッとした私は「私たちが国のために死ねるのを閣下は知らない」と言い返してしまった。

結局、私だけ入隊を認められた。45年3月21日早朝、軍服姿の私は日の丸と万歳三唱で見送られた。母の顔を見れば涙があふれそうで目をそらし続けた。「勝ってくるぞと勇ま〜しく〜」。今も軍歌はそらんじている。

バンコクで念願のインド国民軍女性部隊へ入隊。しかし、インパールから飢餓や感染症で壊滅状態となった日本とインドの兵士が次々に戻ってくる。訓練を終え少尉になった矢先、マラリアにかかってしまい、病み上がりで終戦を迎えた。日本が負けるなんて信じられなかった。

46年にインドに入国、日本にいた家族とも再会した。47年にインドが独立。しかし、パキスタンを失っての独立は、我々が目指したものとはほど遠かった。 その後、私はインド人男性と結婚し、2人の息子に恵まれた。子育てが一段落した後、祖国の言語と歴史を学ぼうと、ヒンディー語を勉強し直し、女子大学の通信講座で古代インド史の学士号を取得した。

■「遺骨をガンジス川に」

74年には、日本語で書き綴(つづ)っていた日記(43〜46年分)をヒンディー語で出版した。2010年には、母校の昭和女子大が「アシャの日記」としてまとめてくれた。

私の夢は、蓮光寺(東京都杉並区)に安置されているボースの遺骨をガンジス川に流すことだ。ボースは終戦直後、台湾での飛行機事故で落命。遺骨はひそかに 日本に運ばれた。国内ではガンジーら現与党・国民会議派と対立したボースの評価は政治的にデリケートで、事故死の信憑(しんぴょう)性を疑う人も多い。そうであっても、ガンジーの誉れとは裏腹に、ボースの遺骨はなぜ祖国に帰ることがいまだ許されないのか。

昨年、日本とインドは国交60周年を迎えた。両国の関係はかつてなく良好で、遺骨返還の環境は整いつつあると思う。今月末には天皇・皇后両陛下が訪印される。もし謁見(えっけん)が許されたなら、私の数奇な人生についてお話したいものだ。(元インド国民軍女性部隊少尉)
     
杜父魚文庫
| 古森義久 | 09:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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