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歴代の天皇、3分の1は火葬   古澤襄
天皇の火葬は、皇室の歴史からは珍しくなく、歴代天皇の約3分の1は火葬。122人(2人は2度即位した重祚=ちょうそ=)の天皇のうち、土葬は73人で、火葬は41人。8人は不明だ。また、122人に含まれない南北朝時代の北朝の天皇6人のうち5人も火葬。一方で、土葬には、実在について議論がある初期の天皇も含まれている。

天皇陵の歴史をたどると、巨大な墳丘を築いて土葬した古墳の時代から、仏教の影響で火葬を採用した薄葬(はくそう=簡素化)の時期、さらには明治以降へと、大きく分けることができる。

ヤマト政権は3世紀の後半ごろ、奈良盆地で成立したと考えられている。宮内庁が崇神(すじん)天皇陵とする行燈山(あんどんやま)古墳(奈良県天理市)は全長約240メートルの前方後円墳で、天皇陵は同時代の古墳の中でも最大の規模や構造、副葬品を持つ墓として築造された。

古墳は5世紀代に最も規模が大きくなる。最大のものは全長約490メートルの仁徳天皇陵(大仙=だいせん=古墳、堺市)で、以降、墳丘の規模は縮小する。埋葬前には、遺体を長期間安置する「殯(もがり)の儀礼」が行われた。

大化の改新(646年)に際しては「薄葬令」が出され、葬儀や古墳築造の簡素化と、殯や殉死が禁止された。仏教が伝わると、遺体の火葬が始まった。その最初は702年崩御の持統天皇で、夫の天武天皇とともに合葬された(檜隈大内陵=ひのくまのおおうちのみささぎ、奈良県明日香村)。仏教思想が浸透すると、淳和(じゅんな)天皇のように、「多くの民を煩わしてはならない」と散骨を命じ、陵の造営すら禁じる天皇も現れた。

その後も火葬と薄葬の時代が続いたが、1654年の後光明(ごこうみょう)天皇の崩御時から土葬に戻った。後水尾(ごみずのお)天皇から明治天皇の祖父にあたる仁孝(にんこう)天皇までは代々、泉涌寺(せんにゅうじ、京都市)に隣接する月輪陵(つきのわのみささぎ)や後(のちの)月輪陵に九重石塔を建てている。

明治維新を経て、明治天皇は生前からの強い意向から京都(伏見桃山陵)に葬られた。大正時代に天皇と皇族の土葬を前提とする旧皇室喪儀令(そうぎれい)が定められたが、戦後廃止され、皇族は火葬となった。一方、大正天皇、昭和天皇は東京・八王子の武蔵陵墓地(多摩陵=たまのみささぎ、武蔵野陵=むさしののみささぎ)に土葬され、明治天皇と同様の上円下方(じょうえんかほう)墳の形式が引き継がれている。(産経)>
     
杜父魚文庫
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