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墓は同族一基であってほしい   古澤襄
共同通信社の記事審査室長だった古津四郎さんは盛岡市の出身。亡妻の墓参りで毎年、帰郷していたが、その折りに郷土の歴史上の人物、米内光政、東条英機、板垣征四郎の墓を詣でていた。

現代史懇話会の月刊誌に「同郷の将星たち」三回が残った。

「世評の善悪は別として、波乱の昭和史をうごかした郷土出身の三人の霊地を訪れ・・・」が書き出しの言葉。

<かれらの伝記は戦時、戦後を通じて数多い。とくに戦後の時流に”さらし者”になった東条、板垣についての筆誅は鋭い。それも仕方あるまい。しかし、かれらを生んで育てた父母、先祖の墓標はれっきとしてある。

三故人をめぐる純人間的な生い立ちの話題もそこに埋もれている筈だ。>

最初に訪れたのは盛岡市北山の日蓮宗・法華寺。ここに板垣家の墓がある。南部藩士の家系から征四郎は明治18年1月22日に父・政徳の子として生まれている。七人兄弟の四男坊。征四郎は祖父・直作の元で育てられた。

明治30年、県立盛岡中学に入り、二年終了で仙台地方幼年学校に入学。戦前の軍事・政治記者だった古津四郎さんは、電通記者として満州事変に際して関東軍高級参謀・板垣征四郎、作戦主任参謀・石原完爾と親しくなった。

征四郎の妻・喜久子さんは日露戦争の奉天会戦で壮烈な戦死を遂げた大越兼吉中佐(福島県出身)の娘。

A級戦犯として処刑された征四郎は喜久子さんに「自分の葬式も墓もいらぬ。先祖のことだけは大切にせよ」と遺言を残した。喜久子さんは山形の石原完爾と相談し遺言通りにして、亡くなるまで自宅で先祖の位牌に礼拝した日々を送った。

古津四郎さんは法華寺の墓地で板垣家の墓を詣でたが、先祖の墓を詣でる人もなくいくつかの墓塔が傾き、さながら無縁墓の集団区とさえ感じたという。

「墓は先祖代々一本制で、偕老同穴、納骨は同族一基であってほしい」と古津四郎さんは言う。この教えを私は護って菩提寺の墓地に建立した「古澤家累代の墓」は同族一基としてある。

杜父魚文庫
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