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書評「大川周明 アジア独立の夢」  宮崎正弘
大川周明の情熱と浪漫とアジアの独立。大川塾につどった精鋭、あの青年達はいかなる人生を送ったか。

<玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢』(平凡社新書)>

大川周明という歴史の裏側に光芒を放つ思想家についてこれまでまともに書かれることは少なかった。全集とて古本屋に出回らなくなった。

戦後、わずかにコーランの翻訳者として、あるいは著作の一部が中公文庫に収録されているに過ぎない。

ところが過去十数年、歴史教科書をめぐる論争が喧しくなってから出版界にちょっとした異変が起きた。正気の回復とでもいおうか、伝統思想への追求が盛んになったのだ。

戦前の思想家を、歴史の堆積を丁寧にかき分けて、考古学者が堆積層を念入りに調べるように史実を冷静に客観的に評価しようという動きである。

杉原志啓が徳富蘇峰を書き、関岡英之が戦争中に西域工作に赴いた日本人を照射し、溝口郁夫が南機関の謎に挑み、松本健一らが北一輝に挑んだ。冨岡幸一郎は林房雄の大東亜戦争肯定論の今日的意義を演繹した。

戦後を生き延びた岩畔豪雄と藤原岩市は自ら回想記を兼ねての大東亜戦争を論じた。

戦後、GHQとコミンテルン思想に洗脳された左翼に牛耳られていたジャーナリズムにおいては右翼、国家主義者としてあっさり「総括」されて、くず箱に捨てられてきた偉人等が陸続として蘇った。


本書は当時、中野学校と並んで雷名高かった「大川塾」に歴史の光をあてた。大東亜戦争の影の功労者である大川周明が復活した。

大川が五一五事件に連座して収監され、豊多摩刑務所を出たのは昭和十二年である。大川は翌年、中野鷺宮に「大川塾」を開設した。陸軍中野学校と同じ時期である。表看板は「東亜経済調査局付属研究所」。なんだか満鉄調査部のようでもあり、一部は中野学校と同じくスパイ養成機関かと誤解した。

「前途有為なる青年を集め、国際通として育て語学を学び、南方アジアに派遣する」目的で一期生二十名づつ、全寮制。そして昭和十五年から「大川塾」の卒業生らは次々と任務を帯びてタイ、ベトナム、インドネシアに派遣される。六期生まであっておよそ百人が「卒業」し、南方へ散った。

戦地で大活躍をなしてきた彼らのことを歴史家は閑却し、多くが大川塾の軌跡に興味を失った。大川塾生らの「戦後」は或る意味で三島由紀夫「楯の会」のその後でもある。

この本を書いた著者は「昭和元禄」の生まれ、動機は「日本がアジアの独立運動に、どれほど関与していたのかを知りたかった」「教科書的な戦争の記述以上のことを、自分で確かめたかった」からだった。

ベトナムへ移住して関係者を訪ね歩いた。根気のいる作業のすえ、本書はようやく出版に漕ぎ着けた。

「海外に派遣された大川塾生に対しては、主に在外公館関係者から指示が出された。ところが陸軍が南方作戦の準備を急速に進めるようになると」、「語学に秀でて土地にとけ込んだ大川塾生を積極的に使おうとし」、「軍への協力を命じられる」

ある者はタイや仏印で「軍の作戦予定地域を秘密裏に回り」、いざ日本軍の上陸作戦の日には「マレー半島に岸辺」に待機する塾生あり、もし「大川塾生の存在がなかったなら、シンガポール攻略やビルマ進出の機会が失われた可能性も否定しきれない」のである。

「緒線の勝利のあとには、こういった地味な仕事に勤しむ若者たちの姿がいくつもあった」(中略)「彼らの多くが籍を置いた大南公司は、謀略組織とみられてしまう一面があった。

大川塾生自身が『本職は現地青年と独立運動をすることでアルバイトが大南(公司)勤務』」だった。万年室や時計、茶碗などの輸入販売に携わり、またレストラン経営など「土地に根ざした商売」と通じて現地にとけ込んでいたのである。

当時、ベトナムには小松清がいた。小松は後にアンドレ・マルロォと知り合い諸作を翻訳した。作家の那須国男は『大東亜共栄圏下のベトナム」に次のように書いた。

「彼らは大川周明の塾の出身者とか言うことであったが、純粋な日本の農村の出身者が多く、ひたむきに現地の生活に融け込もうとしており、安南語の習得にも熱心だった。小松清は彼らの先生格として安南問題を説き、かれらの行動力に期待していた」。ここでいう安南はベトナムである。

戦局の変化により塾生の一部が岩畔機関へも派遣された。「大川塾生は工作員らとともに起居し、手づかみでカレーを食べた。午前中は語学学習、午後は印度研究に費やした。(中略)

情報収集の方法から、遠泳、漕船、時限爆弾の製造、無線機の取り扱いと発信、実弾射撃、潜水などを学んだ」

しかし日本は列強に敗れ、塾生の多くが取り調べを受け、帰国が遅れた連中もいた。軍人の一部はインドネシア、ビルマ、ベトナムに残留し、その後の独立戦争を指導した。

大川周明は東京裁判の被告となって拘留されたが、精神病で裁判から外された。しかし「これからが思想戦争だ」と口癖で、松沢病院退院後は蟄居していたが、塾生が訪ねていくと歓待したという。

占領が終わった翌年、東京・日比谷の松本楼に生き残りの塾生が集合した。ある意味で特攻隊のように団結が固く、そして殆どが人生に悔いなしとして戦後の新生活を駆けぬけた。将軍の回想録のような手柄話もせず、残りの人生を黙々と爽やかに生きた。

杜父魚文庫
| 宮崎正弘 | 11:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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