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「日中」を渋った福田総理 渡部亮次郎
私にとって8月15日の敗戦記念日と共に忘れ難いのは8月12日である。1978年のことだ。耳をつんざくような北京・釣魚台の迎賓館の蝉の合唱。その夜、人民大会堂での日中平和友好条約の署名式。

少し興奮したか、園田直外務大臣は自分の名前を大きく書きすぎて、相手の黄華外交部長が署名のスペースを捜して一瞬、戸惑ったのを私は見ていた。

互いに署名した条約書面を交換したあとシャンパンで乾杯したら、園田さんはグラスをぶつけすぎて、上着の右袖口がすっかり濡れてしまった。

「(締結できなかったら死ぬ覚悟で行くから)代えの洋服はもたないでくれ」と一張羅で来た。えぃ、ままよ。薄いグレイの右袖はシャンパンが次第に黒いしみのように広がっていった。

人民大会堂は6年前にも入っていた。1972年9月25日。梅原龍三郎描く「北京秋天」そのもの、それこそ抜けるよう青空の下、北京空港に降り立ち、その夜には周恩来総理の歓迎宴に同行記者団80人も招かれて、人民大会堂なるどでかいビルでニクソン大統領は断わったという「海鼠の醤油煮」をご馳走になった。

記念写真で私の目の前に立った周恩来総理の頭はちじれっ毛だった。国全体を根底から揺すった紅衛兵による文化大革命はほぼ終息していたが、共産主義政権のマスコミ対処方針が変っていたので興味深かった。

<「近距離記者と遠距離記者があるんです」と説明されて日本側の記者一同は唖然とした。田中首相に同行する記者・カメラマンたちを集めての事前の説明会で、外務省報道課の担当官が言うのである。 記者・カメラマンを首脳に近寄れる範囲、4メートルが近距離記者とすると、遠距離記者は何メートルかい。それが20メートルなんですと、係官は言ったように記憶している。

近距離記者はしかも各社1人に限ると2度目のショック。3度目のショックは記者団機が首相機とは別で、首相機に同乗できるのも各社1人というのであった。

それから本当にびっくりしたのは、NHK政治部長はNHKを代表する近距離及び同乗記者に、それまで角福戦争の敗者・福田赳夫の担当記者だった私を指名した事であった。

角さんとは話をしたことも無い。官房長官・二階堂進についても同様。また外相・大平正芳とも話を交わした事も無いから、ただ機内で3人を交互に監視しているしかなかった。

角さんに沈思黙考しろというのは無理だが、それにしても大平外相の沈黙ぶりは異常だった。中国との下交渉など知る由も無いから、どうしたのかな、ぐらいにしか考えなかった。

大平は台湾との訣別をどう処理するかを考えあぐんでいたのだと、後で知った。

北京空港からわれわれは何台かのバスに揺られてホテルに入れられた。首相たちはと言えば、迎賓館で面会謝絶だという。なんだ近距離も遠距離も無いじゃないかと毒づいてみたが、それっきり。>(ネットメディア大阪「百家争鳴」)

このとき、かのトウ小平は島流し中。日本からカネと技術を徴発しての工業、農業、国防、科学技術の近代化(四化)はまだ話題にもなっていなかった。毛沢東が存命中だから、文化大革命失敗で全権力の掌握は出来ていなくても、共産党内は原理原則派が中心をなしていた。

だから共同声明で謳った日中平和友好条約の締結もすぐに可能だと田中総理もそう理解して帰国したが、ソ連(当時)との接近を警戒する中国が、条約の中に「この条約は覇権を求めるものではない」と明記するよう要求し続けたため、6年間も締結できなかった。

福田内閣を作り、自ら官房長官に就任した園田直氏は岸信介元総理の差し金により総理官邸を1年で追われたが、何しろ福田密約内閣の密約当事者であってみれば、福田総理としては閣内No.2の外務大臣として処遇するしかなかった。

園田氏はその間の事情を世間に明らかにするわけに行かなかったので、懸案の日中条約の締結に自ら当たるためとのポーズをとった。しかし肝腎の福田総理は締結に消極的で、条約が出来ても園田に政府代表の資格をなかなか与えようとしなかった。

多分、この頃の福田総理は「2年」の密約を一方的に破ろうとしており、そのためには条約の締結という既成事実は「花道」として引退に結び付けられるのでは、と警戒したものであろう。

それはともかく、6年間も筋張っていた中国が「覇権条項」に見向きもせずに条約締結をさながら慌てるように急いだのは、現実主義者のトウ小平の再度の復活があった。

園田氏が若い頃に結んだ廖承志氏のルートからは「園田さんが来てさえくれれば間違いなく締結する」とさえ言ってきたものだ。

今考えてみれば4つの近代化の課題に加えて経済の改革開放体制の実施のためには、日本の協力、特に莫大な資金と技術の導入は不可欠である以上、条文の区々たる文言に拘っている時間的余裕はなかったのだ。しかし、福田総理に上がる在北京日本大使館の情報には残念ながら、そこまで突っ込んで分析した情報は皆無であった。

敗戦と共に日本は独立国家を目指すよりは、貧乏と戦争さえなければ幸せとでもいうインポテンツ国家に成り下がった。このため国家生存のための情報を収集する体制を捨ててしまった。外務官僚上がりの総理吉田茂が外務省からスパイ機能(人員)と予算を取り上げてしまったのである。

そこでわが外務省はアメリカからのいわば2次情報の分析ばかりやっているから、結果はどこかの絵描きと同じで、出来上がったものは「模写」ばかりである。

ソ連の崩壊と共に中国が「中華」に舵を切り替えて対日友好をとっくに捨ててしまったのに、未だに対中友好を推進しようと馬鹿の一つ覚えのような姿勢をとり、心ある人たちをして叩頭外交、属国外交と切歯扼腕させているのは、この「2次情報外交」にあるためである。

絵描きだけでなくジャーナリストと称する物書きも「引用」を続けていると、結果が「盗作」として結実するのとそっくりである。最近は大学教授にも多くなった。

杜父魚文庫
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