最終的かつ不可逆的な解決」とは何か   西村眞悟

■歴史戦という観点から本年を見れば、「攻撃の自由」は常に敵にあった


我が国の内外で使われた「戦後70年」という用語は、日本悪者史観を展開して我が国を攻撃できるという戦略的用語であった。何故なら、この用語の「戦後」とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)の「戦後」に限定されており、この戦争は、


「ファシズム=ナチズム=軍国主義 対 自由民主主義陣営の戦争」即ち、「悪 対 正義の戦争」で「正義が悪に勝った戦争」であり、我が国は敗者つまり「悪」であった戦争であるからだ。
 

従って、あの邪悪な共産党独裁国家にして軍国主義かつ帝国主義そのものの中共(チャイナ)も、あたかも正義は我に有りと言わんばかりに対日戦勝利70年記念軍事パレードを打つことができた。そして、その中共に迎合してその軍事パレードを見学していた韓国大統領も朝から晩まで世界中で、「従軍慰安婦=性奴隷」を掲げて日本を非難することができた。


これに対して我が国は、八月の総理談話で「反省」と「おわび」を表明し、こともあろうに、あの村山富市談話を受け継いでいくと申したのである。そして暮れの十二月二十八日、韓国との間で従軍慰安婦問題に関して、総理が「反省」と「おわび」を表明して「最終合意」したのである。


以上の経過を概観すれば、本年(平成27年)は、歴史戦において最低レベルに落ちた年となったと言わざるをえない。村山富市や菅直人や○○等々が、靖国神社に参拝しないのは納得できる。


こんなのが参拝すれば神社が汚れるからである。
  

しかし、靖国神社に参拝できなかったのは痛恨の思いであります、と言った安倍晋三が、  村山富市談話を守ると言いまたもや靖国神社に参拝できずに終える本年は、やはり最低レベルに落ちたのだ。


外務省のもっともらしい言い訳、また、訳知り顔の中共と北朝鮮の脅威に基づく日韓最終決着の必要性論、に素直に納得する必要はない。最低レベルは最低レベルだ、この現実を見つめよう。


そこでこの最低レベルから、来年、如何にして上昇するのか、如何にして我が国は名誉と誇りを回復するのか、このことを強く考えねばならない。


総理も外務大臣も、この度の日韓合意を「最終的かつ不可逆的な解決」と言ったのである。これは何を意味するのか。来年にはこの問題は存在しない、ということではないか。


これが、「最終的・不可逆的解決」である。従って、年、如何に韓国内に反日デモが起ころうとも、韓国政府が如何にそのデモに迎合しようともさらに韓国と中共の反日連携がなされようとも、その連携が台湾やインドネシアに広がろうとも、我が国は断じて、平成二十七年十二月二十八日に「最終的かつ不可逆的な解決」に至ったことを堅持し、一切ぶれてはならない。韓国の運命を決めるのは韓国人なのだから。これ、自業自得。


本年の最終段階でも日韓会談の意義は、かろうじて「この一点」に見いだせるのである。
 

来年こそは、「この一点」を堅持して、英霊と共に我が民族の歴史と誇りを取り戻さねばならない。
 

今、「英霊と共に」と書いた。その意味は、英霊は過去のある日付けの時に亡くなったのではなく、現在の日本と共にあるということである。


英霊と現在に断絶はないということである。この思ひが、歴史戦に勝ち、民族の誇りを子孫に伝える力である。


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| 西村眞悟 | 09:52 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







「ミュンヘンの宥和」の教訓を実践する時が到来   西村眞悟

今まさに、東アジアの状況の中で、歴史の教訓としての戦争を生み出した「ミュンヘンの宥和」を思い起こし、同じ轍を断じて踏まないと決断し行動に移さねばならない。


先日、本通信で「目を周辺情勢に転じよ」と題して、中共の南シナ海スプラットリー諸島での人口島建設を「侵略」であると警告した。


しかし、その時は、中共はまだ、人工島建設の目的を漁業のためとか資源調査のためとか説明しており、「平和を守るため」として軍事の為、即ち、南シナ海における軍事力増強の為とは認めていなかった。
  

ところが、五月三十一日、シンガポールのアジア安全保障会議(シャングリラ対話)において、中共の人民解放軍副総参謀長である孫建国は、南シナ海の人工島建設を、軍事、防衛上のニーズを満たすためだ、と説明し、明確に軍事目的であることを認めた。


これは、我が国が、中共の南シナ海における人工島建設に対する対処を一変させる転機である。


即ち、我が国も、中共の「明確になった軍事目的」を、「明確に阻止する」行動を開始するべきである。


仮に、中共が明確にした軍事目的達成のための人工島建設を、我が国が今までのような態度を続けて見守るだけなら、それはつまり、我が国が、中共に「宥和」し、果ては中共の東アジア海域に対する「侵略」を追認することになる。


アメリカのカーター国防長官は、人口島の十二海里以遠で偵察飛行を続けながら、十二海里以内を航行する方針を明確に打ち出し、シンガポールでの同会議において、五月三十日、中共に人工島建設の即時中止を要求した。


このアメリカの要求に対して、中共の孫副総参謀長は、翌三十一日、明確に「軍事目的である」と認めたのだ。


よって、我が国は、このアメリカの要求に対する中共の明確な軍事目的表明を受けて、その中共の軍事目的を阻止する行動を開始するべく、アメリカおよびアセアン諸国またオーストラリアとニュージーランドに、「東アジアの海の自由を守る作戦」実施を呼びかる時が来た。


再度明確に言っておく。南シナ海のシーレーンを守ること、南シナ海の航行の自由を守ることは、我が国の存立に直接影響を与える、我が国の「個別的自衛権行使」の領域である。

国会において、現在、ちんたらと行われている「安全保障体制議論」に、総理大臣を付き合わせている時ではない。


次の経過から学べ。


一九三六年(昭和十一年)、ナチスドイツのヒットラーは、ベルサイユ条約で非武装地帯と定められたラインラントに武力侵攻した。


イギリスなど各国はそれを阻止しなかった。一九三八年(十三年)、ヒットラーは、オーストリーを併合した。


次いで、ヒットラーは、チェコスロバキアのズデーデン地方の割譲を要求する。


同年九月、ミュンヘンにイギリスやフランス首脳が集まり、ヒットラーの要求を認める(宥和)。


イギリス首相チェンバレンは、ミュンヘンから帰国して、空港で、「私は平和を持ち帰った」とイギリス国民に告げる。

  
ところが、一九三九年八月、独ソ不可侵条約締結(モロトフ・リッペントロップ協定)同年九月一日、ドイツ、ポーランド侵攻 九月三日、イギリス・フランス、ドイツに宣戦布告・・・第二次世界大戦勃発


つまり、チェンバレンが持ち帰ったのは、平和ではなく戦争であった。これが、独裁者との宥和が生み出した結果である。


イギリスの戦時首相ウインストン・チャーチルは、「回顧録」で述べる。
 

「第二次世界大戦は、防ぐことができた。融和策ではなく、早い段階でヒットラーを叩きつぶしておれば、その後のホロコーストもなかっただろう。」
  

アメリカのジョン・F・ケネディ大統領のハーバード大学時代の研究テーマは、「ミュンヘンの宥和」であった。そして、「何故、イギリスは眠ったのか」という論文を書いた。


当然、ケネディは、チャーチルがミュンヘンの宥和に対して何と言ったかは知っている。


よってケネディは、この「ミュンヘンの宥和」から得た教訓に基づいて、一九六二年(昭和三十七年)十月十四日〜二十八日の「キューバ危機」において、「早い段階で叩きつぶす」決断をしたのだ。


即ち、ケネディは、断固としてキューバを海上封鎖して第三次世界大戦も辞さずとの姿勢を示し、ソ連がキューバに核弾頭ミサイルを運び込むのを阻止し、ソ連に既に運び込まれたミサイルの撤去を要求した。


この時アメリカ軍は、B52戦略爆撃機が常時空中待機するデフコン2(最高度に準じる防衛体勢)に入った。


この結果、ソ連のフルシチョフ首相は、キューバからのミサイル撤去を表明する。


ケネディが、「ミュンヘンの宥和」からの教訓に基づいた、相手の意図を「早い段階で叩きつぶす」措置を決断していなければ、アメリカは現在も、喉元に核ミサイルという短刀を突き付けられたままだったろう。

  
そこで現在、中共が埋め立てて人工島を造っているスプラットリー諸島(南沙諸島)は、フィリピンが領有権を主張している諸島であり、同じく中共が奪った西沙諸島は、ベトナムが領有権を主張している諸島である。


また、尖閣諸島は、我が国固有の領土である。


このように中共が領有を主張している所は、総て他国の領有するところである。つまり中共は、他国の島を武力で奪い、これから奪おうとしているのだ。


これ即ち、中共は、ラインラントに進駐し、オーストリーを併合し、ズデーデン地方を奪ったナチスドイツのヒットラーと同じである。


振り返って、チャーチルが言う「早い段階でヒットラーを叩きつぶす」べき時は、ヒットラーの「ラインラント進駐」の時であった。


これを現在の東アジアに置き換えれば、南シナ海における中共の「ラインラント進駐」が、現在進行中のスプラットリー諸島埋め立てである。


我が国は、「ミュンヘンの宥和」からの教訓に基づき、フィリピン、アメリカと連携して、フィリピンのスービック及びクラーク基地に哨戒機と戦闘機とイージス艦を進出させ、アメリカ海空軍と協働して、中共のスプラットリー諸島軍事基地化を阻止するための作戦行動を開始すべきである。


事態は、既にこれほど深刻である。


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| 西村眞悟 | 00:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







あのマツタケはどうなったのか   西村眞悟

本日の産経新聞朝刊の一面は面白い。
 

「産経新聞の取材は受けません」としている朝鮮総連に関して、今朝の産経新聞は、「今回の捜査が、解明が困難だった朝鮮総連の裏資金の流れに迫る可能性がある。」と書いている。


この産経の第一面は、朝鮮総連に取材することなく書かれている。


よって、真実に迫る。「産経新聞の取材は受けません」との朝鮮総連の言い分は、「語るに落ちた」のである。


 それは、この見だしだ。「マツタケ利権独占密約 金総書記 総連議長に『120億円』貸与見返り」


以上のこと、京都府警などの合同捜査本部が、北朝鮮産マツタケの不正輸入事件に関する強制捜査に入ったことをきっかけにして、白日の下に晒されようとしている。


これはまことに、我が国のみならず、世界にとって重要なことである。


何故なら、これによって、金一族の独裁支配維持の資金と核開発およびミサイル製造資金を止めることができるからである。


北朝鮮は、弾頭に核を搭載したミサイルを海中の潜水艦から発射させる能力を獲得しつつあると伝えられている。


この脅威の拡大を、我が国の強制捜査によって止めることができる可能性が強まってきた。


北朝鮮の国内情勢は、国軍のトップを裁判無しで突然銃殺したと伝えられており、不可解な不安定状態を呈してきている。


そこに、軍への資金、金独裁維持の資金が止まれば、一挙に体制崩壊に向かう可能性がでてきた。


ここにおいて、我が国は、政府と国民が一丸となって、はっきりと、横田めぐみさんら、北朝鮮に拉致された同胞の救出への腹を固めて、それを断固実現することを誓はねばならない。


自衛隊を、拉致同胞救出の即応体制におかねばならない。


よって、現在、鋭意進行中の捜査を見守りたい。

  
さて、マツタケの不正輸入から、次のことを思い出したのでここに記しておく。平成十四年九月十七日、平壌宣言に署名して帰国の途についた小泉総理と安倍官房副長官らを乗せた政府専用機に北朝鮮で積み込まれたトラック二台分のマツタケは、その後どうなったのだろうか?


あの日、北朝鮮から拉致被害者五人は生きているが、その他はみな死亡したと告げられて、それを真に受けて平壌宣言に署名して巨額を金を北朝鮮に支払う約束をした小泉総理は、大量のマツタケを受け取って帰ってきた。


ここから分かることは、北朝鮮は、日本人にマツタケを贈れば喜ぶと思っているということだ。
  

事実、あれほどの悲しみを平然と告げられても、マツタケを受け取って帰ってきたのだから、小泉総理一行は、ありがたいと喜んだのだろう。


その後、北朝鮮が日本側を騙して小泉総理一行が信じた八名死亡は、日本国内で虚偽・ウソと判明するのだが、その前後頃、被害者家族の集まっている場所に、平壌会談の説明にきた官房副長官に、私は、「マツタケを大量にもらってきたようだが、どうしてそんなものをもらったのか、そのマツタケはどうするのか、ありがたく、分けて食べるのか」と聞いた。


官房副長官は、引きつった顔になった。そのまま絶句したように無言だった。


そもそも、政府専用機は、エアー・フォース・ワンであり日本国家そのものである。小泉純一郎一行のチャーター機ではない。


その政府専用機に、検疫もせず安全確認もせず、大量のマツタケを積み込ませる馬鹿があるものか。


この馬鹿さ加減は、肝心の会談において、虚偽の死亡宣告を軽信し、さらに、拉致の「ら」の字もないのに、我が国が北朝鮮に巨額を金を支払い、巨額の請求権を放棄する約束だけがある平壌宣言に署名した馬鹿さ加減がそのまま帰国時にも続いていたことを示している。


小泉総理の国内での説明は、拉致問題解決のために平壌に行った、ということだったが、それは違う。


日朝国交正常化の為に、その「障害(拉致問題)を除去」し「巨額の金を支払う約束」をしに行ったのだ。


だから、濡れ手で粟の大金をせしめることになった金は喜んで、支払いの約束をして帰国する鴨に、マツタケを贈った、と言う訳だ。


以上が、北朝鮮のマツタケで思い出したことである。
  

このように、平成十四年の北朝鮮のマツタケは、日本政府の馬鹿さ加減を解明する切っ掛けのマツタケだった。


しかし、この度の平成二十七年の北朝鮮のマツタケは、北朝鮮の急所を突く切っ掛けのマツタケにしなければならない。捜査当局のご健闘を切に願う。
 

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| 西村眞悟 | 00:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







パラオ・ペリリューへの行幸啓   西村眞悟

四月八日と九日、天皇皇后両陛下は、次の一泊二日のご日程でカロリン諸島のパラオ共和国に行幸啓される。
  

両陛下は、四月八日、午前十時三十一分、皇居正門を出られ、チャーター機でパラオに向かわれる。


同日夕、パラオのコロールにて、パラオ共和国大統領夫妻そしてミクロネシア連邦およびマーシャル諸島の大統領夫妻と晩餐を共にされる。


同日晩、ヘリでコロール沖に停泊する巡視船「あきつしま」に移動され艦内で宿泊される。四月九日、「あきつしま」艦載ヘリにてペリリュー島に移動される。


同島にて、「西太平洋戦没者の碑」に参られ、戦没者を慰霊され、生き残った兵士と懇談される。


その後、アメリカ軍の慰霊碑に参られ、ヘリでコロールに戻られ、チャーター機に乗られる。


同日、午後九時五十五分、皇居正門に入られる。


両陛下のパラオにおける「お召し艦」になる巡視船「あきつしま」は、ヘリコプター搭載で機関砲を四機備える全長百五十メートル・六千五百トンの大型巡視船で、既に三月三十一日、三千キロ離れたパラオに横浜から出港している。


供奉者(随行員)は、通常ならば次の通り。


宮内庁長官、侍従長および侍従、女官長および女官、侍医、警察庁長官および警察庁職員、皇宮警察本部長および皇宮警察職員、宮内庁総務課長および総務課職員


但し、両陛下が御宿泊される「あきつしま」艦内に、これら随行員全員を宿泊させられるスペースがあるのかどうか分からない。両陛下の健康管理および警備の万全を信じる。


この今上陛下のパラオ共和国への行幸啓は、明治天皇の明治維新後の国内各地への巡幸、そして、昭和天皇の大東亜戦争敗戦後の国内各地への巡幸を引き継がれるものである。それは即ち、昭和天皇から続けられてきた英霊への慰霊である。


昭和天皇は、昭和六十二年、沖縄海邦国体へ行幸される予定であったが、ご病気になられた。そして、沖縄行幸を果たせぬまま昭和六十四年崩御される。その御製、
  

    思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果たさむ つとめありしを
 

今上陛下は、皇太子の時代から沖縄を訪問され、天皇としても度々沖縄に行幸され、昭和天皇の詠まれた「たづねて果たさむつとめ」を果たされてきた。

  
同時に、アメリカ軍の沖縄および本土侵攻を断じて阻止せんと、広大な西太平洋の各拠点を孤立無援のなかで死守して玉砕していった英霊の慰霊も続けられてきたのだ。


天皇皇后両陛下は、平成六年二月には、硫黄島に、平成十七年六月には、サイパン島に、行幸啓されて玉砕した英霊を慰霊されてきた。


そして、平成二十七年四月、パラオに行幸啓され三度目の玉砕の島での慰霊をされる。


大東亜戦争は、広大なアジアの大地と太平洋を戦場として戦われた。我が国の南三千キロの太平洋にあるパラオ諸島は、我が国が戦前南洋庁をおいていた西太平洋の要である。


天皇陛下が、この度、この要のぺリリュー島において「西太平洋戦没者」を慰霊される。


この慰霊は、今上陛下が父君である昭和天皇と共に二代にわたって果たされる、霊の世界における、日本民族の戦前戦後の統合であり、民族の永続のあかしである。


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| 西村眞悟 | 10:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







「戦後」だと思っておればいつの間にか「戦前」である    西村眞悟

現在、安倍晋三総理大臣の「戦後七十年談話」を作成するにあたって、政府に「有識者懇談会」が発足し、時折、その「懇談内容」が漏れ伝えられて報道されるようになった。
  

この情報のリークは、いつもながらの情報操作の一環である。このようにして、これを繰り返して、外務省や官邸の事前に想定している結論に「国民の知らない無視できないアメリカをはじめとする国際社会の圧力の中で、けなげにもその圧力を真剣に良心的に受けとめながら、紆余曲折の末に、人知を絞り尽くして辿り着いた」
  

と、いう涙ぐましい努力のシナリオが実現されていく。
  

そして、喉元過ぎたあとは忘れる。総理大臣はもちろん、誰も責任をとらない。これが、「戦後七十年総理大臣談話」に限らず、政府による「有識者懇談会」というものである。


さて、「戦後」とは何時からか、と言えば、昭和二十年(一九四五年)九月二日(降伏文書調印)からであろう。


「戦後」の起点が昭和二十年ならば、ここから七十年前は明治八年(一八七五年)で、西南の役勃発の二年前である。


この年、千島樺太交換条約がロシアと結ばれ、武士階級はまだ刀を腰に差して歩いており廃刀令はでていない。


現在、昭和二十年を起点にすれば、明治八年以前の遙か昔のことに関して「総理大臣談話」を出そうとしているのだ。


では何故、平成二十七年の総理大臣は、これほどの年数の隔たりのある昭和二十年以前のことを取り上げなければならない現在政治上の必要性に迫られているのか。


このことを極めて不自然で奇妙なことだと思わずに、大真面目にしようとしているということ自体が、「日本を覆う戦後という枠組み」(思想的・政治的・体制的な手かせ足かせ)が七十年間も続いていることを示すことなのだと思う。


つまり、我々、日本と日本人は、七十年間も「戦後という安楽な家(牢獄)」のなかで生活することを強いられてきた。


従って、このままでは、七十年経っても「戦後」であり、百年経っても百五十年経っても「戦後」である。


それ故、もし、中共が、また韓国が、存在していたらの話であるが、これから十年、また二十年、そして三十年経てば、「戦後八十年談話」、「九十年談話」そして「百年談話」を出す羽目になろう。


そこで、「戦後体制からの脱却」また「日本を取り戻す」と言って総選挙を経て総理大臣の地位に就いた安倍晋三総理に申す。


戦後七十年談話を出すと言ってしまった以上、出さねば嘘をついたことになるから出されよ。


そして、その主要な内容は、総理大臣の権限と責任において、次の如き宣言とすべきである。
  

「現在は、もはや戦後ではない、既に戦前である。よって、我が国は戦後の枠組みから脱却する」


これ、「有識者懇談会」の主要議題とはまったく次元が異なる。しかし、安楽な「戦後」はもうないのであるから、我が国家の存亡に最大最深の政治的責任を有する総理大臣は、「懇談会」(つまり外務省の役人)に拘束されては責務を果たせない。


しかも、我が国を何時までも「戦後体制という枠組」のなかに閉じこめておくために我が国の総理大臣が「戦後七十年謝罪談話」を発出するように誘導し圧力をかけている中華人民共和国自体が既に「戦後」ではなく、着々と「戦前」を実践しつつあるのだから、安倍総理は長州人らしく、同じく長州人の吉田松陰先生の言われた「狂を発し」、「我が日本は、『戦後体制』の桎梏から脱却し、祖国の存立を確保し民族の名誉を守る」と宣言すべきである。


では、「戦前」とは何か。
  

昭和十四年(一九三九年)一月、日華事変収拾に失敗した近衛内閣総辞職の後に発足した平沼騏一郎内閣は、ソビエトとのソ満国境における大規模武力衝突であるノモンハン事件に遭遇するなかで、ドイツとの軍事同盟締結の交渉を進める。


しかし、八月二十三日、ドイツとソビエトは、モロトフ・リッペントロップ協定、つまり、独ソ不可侵条約を締結する。即ち、味方だと思っていたドイツが交戦中の敵と不可侵条約を結ぶのである。


そこで平沼騏一郎総理は、「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を発して総辞職する。
  

この「複雑怪奇」のなかからナチスドイツのポーランド侵攻即第二次世界大戦が勃発し、それは六年後に我が国に二発の原子爆弾を投下した後に終了する。


「戦後」とは、この「複雑怪奇な天地」を「戦前」として生み出された。「戦前」とは平沼騏一郎総理が警告を発した通りの「複雑怪奇」なことを言う。


そして、この一年間で明確になったのは、欧州は再び「複雑怪奇」な天地、即ち「戦前」に戻ったということである。


それを明確にしたのは、ロシアのプーチン大統領である。


彼は、武力でクリミヤを併合しウクライナ東部を制圧した。そして、イギリスもフランスもドイツもアメリカもそれを止めることはできない。その結果、欧州では、ロシアのバルト三国への武力侵攻も予想し得る事態となった。


つまり、欧州の天地では、プーチンによって、武力によって国家の勢力圏が変更することが実証された。これが「戦前」に戻ったということである。


それでは、アジアの天地はどうか。


事態を見つめれば、明らかであろう。アジアの天地も既に「戦前」である。


中共は、ベトナム戦争の終結によってアメリカがベトナムから撤退した直後から南シナ海南西部へ、さらにフィリピンのスービック基地からアメリカが撤退した直後からは南シナ海中央部へ、それぞれ武力侵攻して勢力圏を武力で拡張している。


即ち、アジアで次ぎにヨーロッパで、既に勢力圏を武力で拡大させる「戦前」が始まっている。


アジアとヨーロッパが違うのは、アジアの中共は、夜盗や土匪のようにこっそりとやっていたのに対し、ヨーロッパでは、プーチンのロシアが、白昼、正々堂々としたことである。


以上のように、既に世界は、とりわけ我が国の存在する東アジアは、「戦前」なのだ。


そして、この「戦前」を造りだした夜盗が、我が国を「戦後」という牢獄にこの先も閉じこめ続けようとして総理大臣の謝罪決議を期待している。


その目的は、戦後体制のままの我が国を、効率よく制圧し勢力圏を拡げることである。
  

よって、切に願い、何度でも言う。安倍総理、「戦後」という枠内の「有識者懇談会」と外務省に囚われず、それらを放擲して、政治家としての知性と本能に基づいて、「戦後からの脱却宣言」という「戦後七十年総理大臣談話」を発出されたい。


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| 西村眞悟 | 08:33 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







「東京大空襲」と武士道    西村眞悟

昭和二十年三月十日の、アメリカ軍による非武装市民の大量殺傷を目的とした東京大空襲の日が迫っている。


産経新聞は、昨日から「大空襲、戦後七十年」と題する特集を始めている。これから、二日間、机の前に座る時間がないので、今、思い浮かぶことを書き留めておく。


三月十日は、東京の人口密集地帯が大量の焼夷弾で焼き払われ十万人以上の非戦闘員の人々、つまり主に女性、子供、老人が焼き殺された。


そして、四月十二日、アメリカ大統領F・ルーズベルトが死亡する。これに対して、鈴木貫太郎総理大臣は、「優れた指導者であった大統領の死を悲しむアメリカ国民に対して、心より哀悼の意を表する」とのメッセージを送った。


同時期、ドイツのヒットラーは、死亡したルーズベルトを口汚く罵る声明を発表した。


アメリカに亡命していたドイツ人作家のトーマス・マンは、鈴木総理の哀悼のメッセージに感動し、ヒットラーのメッセージを嫌悪し、「東洋の国に騎士道がある、人間の死に対する深い敬意と品位が確固として存する」と日本を讃えた。


では、アメリカはどうしていたのか。大統領の死の翌日も翌々日も、無辜の殺傷を目的として東京爆撃を続けていた。


つまり、アメリカは、トーマス・マンの嘆いたドイツを同じなのだ。


大西洋を単独飛行で渡ってパリまで飛んだリンドバーグが、ドイツが欧州でユダヤ人にしていることを、アメリカがアジアで日本人にしている、と語ったことは真実であった。


それにしても、おびただしい無辜を殺傷し続けている鬼畜、まことに鬼畜、そのアメリカ軍の最高指揮官の死を悼むメッセージを発表した、慶応三年の江戸時代生まれの宰相・鈴木貫太郎の世界に示した武士道を深くかみしめたい。


先の枢密院議長、先の天皇の侍従長たる海軍大将、内閣総理大臣鈴木貫太郎、惨憺たる東京の焼け野が原において、断固として世界に示す。
  

日本人は、如何なる艱難辛苦のなかにあっても、相手が如何なる非道を行っても、B29爆撃機何万機で攻撃してきても、武士道と品位を失うことはない誇り高い民族である、と。

 
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| 西村眞悟 | 13:04 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







嗚呼 松山歩兵第二十二聯隊    西村眞悟

二月十五日に伊予松山に行き、護国神社境内の会館における勉強会の講師を務め、翌本日十六日に堺に帰った。


護国神社の背後にそびえる綺麗な円錐形の山の裾に、多くの慰霊碑が建てられている。


少年飛行兵の碑を観て、勉強会においては、私のホームページの表紙にある台湾の桃園飛行場から笑って沖縄に出撃していった陸軍特別攻撃隊の少年兵達の写真を見てもらおうと思った。


そして、境内最大の慰霊碑、「歩兵第二十二聯隊 忠魂碑」に参った。


勉強会に参加した人達に聞くと、松山の地元でも、二十二聯隊のことを知らない人がほとんどになっているとのこと。

  
他方、松山市は、観光客むけに「坂の上の雲の町」との宣伝文句を流している。司馬遼太郎氏の松山出身の秋山好古陸軍大将と弟の真之海軍中将そして俳人の正岡子規を主人公にした歴史小説「坂の上の雲」がベストセラーになり、NHKがドラマ化して放映したので「坂の上の雲の町」をうたい文句にすれば観光客が集まると、松山市が見込んだようだ。
  

なるほど、司馬氏の「坂の上の雲」には秋山兄弟は書いてあるが二十二聯隊には触れられていない。


そこには海軍の秋山真之少佐が旅順の二百三高地攻略の重要性をまず陸軍に指摘し、陸軍の児玉源太郎が二百三高地を墜したから、旅順要塞が陥落したように書いてある。


しかし、松山市よ。小説に飛びつかずに、郷里の人々の実際の歴史をもっと大切にしたらどうか。

  
旅順要塞が陥落したのは、松山歩兵第二十二聯隊が肉弾突撃を繰り返して、永久堡塁である東鶏冠山を突破し、旅順市街を眼下に見下ろす望台に雪崩れ込んだからである。


旅順が陥落しなければ、我が国は北の三十万のロシア軍と南の旅順要塞に籠もる三万のロシア軍に前後を囲まれ崩壊の危機に瀕する。


従って、旅順が陥落しなければ、我々が日本人として生まれてきたかどうかも分からない。この危機を救った英雄の碑が、護国神社の「松山歩兵第二十二聯隊 忠魂碑」である。


イギリスは日英同盟のよしみで、イワン・ハミルトン中将をはじめとする高級将校を観戦武官として日露戦争の戦場に送ってきた。


彼らの報告に基づくイギリス政府の「公刊日露戦争史」には、次のように書かれている。


「結論として旅順の事例は今までと同様に、堡塁の攻防の成否は両軍の精神力によって決定されることを証明した。最後の決定は従来と同様に歩兵によってもたらされた。


・・・この旅順の戦いは英雄的な献身と卓越した勇気の事例として末永く語り伝えられるであろう。」


この旅順要塞攻防の成否を決定した歩兵とは、松山第二十二聯隊である。「英雄的な献身と卓越した勇気の事例」を残したのは、松山第二十二聯隊である。


そして、これを「末永く語り伝える」べきなのは、松山市ではないか。(もちろん、旅順要塞に肉弾突撃した歩兵は二十二聯隊だけではない。しかし、松山市は、小説ではなく、まず第一に二十二聯隊の実際の事例を語り伝えねばならない)


実は、五年ほど前に、同じ松山の護国神社で「二十二聯隊の碑」に参ったときにも、二十二聯隊は、その郷里である松山で、その国家に果たした武勲にふさわしい扱いを受けていないと感じたので、改めて、以下に、松山歩兵第二十二聯隊の英霊がたどった歴史を書いておきたい。


■松山第二十二聯隊忠魂碑前の「碑文」


聯隊は、明治十九年八月十七日、明治天皇の聖諭と共に軍旗を親授され、堀之内に創設された。


尓耒主として県内の若人が入営し、郷土聯隊として六十有余年に亘り、日清、日露の両戦役を始めシベリア派兵、上海事変、日支事変、北満の警備等、数度の外征に赫々たる武勲をたて、豫州健児の名聲を高めた。


大東亜戦の末期には、沖縄に転進して本土防衛の重任にあたり、優勢なる米軍の猛攻を受け、敢然死斗防戦につとめたが、遂に昭和二十年六月、沖縄南部地区の戦斗において、軍旗もろとも将兵全員玉砕した。


ここに、諸先輩の偉勲を偲び、その功績を称え、英霊の永久に安らかな鎮座を祈念する。

 
松山の歩兵第二十二聯隊は、日清戦争においては仁川に上陸して平壌を支那兵から解放し占領した。


明治三十一年、善通寺に乃木希典将軍を初代師団長とする第十一師団が創設されるや同師団の隷下に入り、日露戦争においては、乃木希典軍司令官が指揮する第三軍に編入されて旅順要塞攻略に当たる。


その担当攻略要塞は、旅順の死命を制する最重要の永久堡塁である東鶏冠山であった。歩兵によるその永久堡塁への攻撃策は、英国の「公刊日露戦争史」にあるとおり、突撃であった。

  
二百三高地は明治三十七年十二月五日に陥落したが、旅順要塞自体は、永久堡塁に守られてびくともしなかった。

  
しかし、二十二聯隊を含む我が歩兵部隊は、要塞を地下から爆破する工兵部隊と連携して屍の山を築きながら肉弾突撃を繰り返し、十二月三十一日に、旅順の三大永久堡塁である東鶏冠山、二龍山そして松樹山を落とし、旅順は遂に、望台を残すのみとなった。


翌、明治三十八年一月一日午前七時三十分。第九師団(金沢)の第三十五聯隊第三大隊長増田少佐は、望台を眺めて、「獲れる」と直感し、直ちに突撃した。


善通寺の第十一師団第四十三聯隊第二大隊長松田少佐も直ちに突撃した。
  

第三軍司令官乃木希典大将は、両大隊の突撃を追認し、二十八センチ榴弾砲をもって望台への集中砲撃を命じた。

  
午後三時頃、ロシア兵は退却を開始した。歩兵部隊の突撃が望台山頂に殺到していった。午後三時三十分、望台山頂に日の丸が掲げられた。
  

午後四時三十分、第三軍前哨に旅順要塞司令官ステッセル中将の軍使が訪れ、降伏を申し出た。


一月五日午前十時五十分、旅順要塞司令官ステッセル中将は、水帥営を訪れて乃木将軍と会見した。


此処に、十三万人の兵を投入し五万八千の死傷者を出した旅順要塞攻防戦は終結した。


一月十四日、水帥営北方高地で戦没将兵の慰霊祭が行われた。午前十時、乃木希典大将が、祭壇の前に進んで祭文を朗読した。式場からは参加した将兵の嗚咽が聞こえてきた。


「乃木希典ら、清酌庶羞の奠を以て、我が第三軍殉難将卒諸士の霊を祭る。ああ、諸士と、この栄光を分かたんとして、幽明あい隔つ・・・悲しいかな。地を清め、壇を設けて、諸士の英魂を招く、こい願はくば、魂や、髣髴として来たり、饗けよ」


この式場には、多大の犠牲者を出した松山第二十二聯隊の戦没将兵の為に、聯隊の郷里である愛媛県越智郡河北高等小学校五年生の送ってきた造花が供えられていた。


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| 西村眞悟 | 17:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







汚い内蔵を見る思いがする    西村眞悟

風は寒いが日差しは優しい仁徳天皇陵の南にひろがる大仙公園を、犬を連れて散歩してから机に向かっている。


公園の日差しとは反対に、今日この頃の報道を点検すれば、現在の政界の汚い内蔵を見る思いがする。


これでは、昨年末の総選挙は、日本を悪くするためにやったということになる。


「勝者、敗因を蔵し、敗者、勝因を蔵する」、という言葉がある。では、我が国の、この特異な戦後七十年政界は、何を蔵しているのだろうか。それは、敗因でも勝因でもなく、滅亡だろう。


自民党の総務会長が、大旅行団を率いて韓国を訪問して、例のあの朴大統領と会見し、彼女が、


「慰安婦が生きているうちに解決を」とせっつくと、それに対して「まったく、その通り」との見解を表明している。

  
この人は、かつて小沢一郎氏の大旅行団である「長城計画」や「ジョン万の会」などを企画したり、観光業界や旅館業界が歓迎する日曜日や土曜日と重なる祝日をずらして連休を多くする制度を作ったりしてきた、まことに器用な御仁である。


七十年前に売春婦であった人は、今は老婆であろう。その彼女らの老後を何とかするのは、彼女らの母国である韓国の大統領の仕事である。


それをだ。日本に対して、解決を、とは何だ。この大統領は!
  

韓国政府が認めているように、韓国は「売春大国」である。数年前、韓国国内の売春を禁止すると、売春婦による「売春禁止反対、私達の職業を奪うな」という反政府デモが為された国。これが韓国だ。
  

とはいえ、その売春禁止の結果、韓国から売春婦が世界に飛び出し、アメリカにおける国別外国人売春婦数は、韓国人がダントツの一位である。


日本にも韓国人売春婦が「うようよ」いる。


もっとも、彼女ら、自力でアメリカや日本に渡航して「事業」を始める才覚がないから朝鮮人業者(昔の女衒)の、儲かるよという「甘言」に騙されまたは誘われて渡航して行く。


現在も斯くの如く。七十年前も斯くの如しだ。


しかし、今から七十年後に老婆となった彼女らの生きているうちに、七十年後の我が国やアメリカは、彼女らに対して何か「解決」しなけらばならないのか。

  
それを「まったく、その通り」という馬鹿が、七十年後にはいないことを願う。


また、例の、自民と公明の、「グレーゾーン」をどうするとか、防衛対象をアメリカ以外に広げるのはいいとか嫌だとかの「安保法制協議」が始まったようだ。


これも馬鹿馬鹿しいから止めたらどうか。敵に、日本攻略のやり方を教えるようなものではないか!
  

自民と公明は、「あれはできます」、「これはできない」とやっている。


敵は、おおきにと言って、自民公明が「これはできません」と言っている部分にやってくる。


こいつらのしていることは一体何だ。用語を、適切に使えば、これは、「利敵行為」である。「外患誘致」である。これを、おおまじめに、やっている。
  

安倍総理は、この「韓国へのまったく、その通り」の大幹部と、自民公明の「利敵行為者」の分厚い層を土台にして、以前の談話と整合性のある「戦後七十年安倍晋三総理大臣談話」を練っている。
  

もうやめとけ。沈黙しておけ。それが一番、民族の名誉を守り、国益に適う。


ところで、日本人二人の首を切り落としたISの過激テロ組織を非難せずに、人命尊重とか憲法九条を守れとか戦争反対とか、中東地域への人道支援を表明した安倍総理が悪いとか、安倍は見殺しにしたとか、叫び、踊り、「I AM KENJI」とかの札を持って立っているやつがいる。
  

これらの者どもは、中東で日本人を始め欧米人を酷たらしく殺害したテロ組織の本質に目をつぶる偽善者である。
  

どこの国にも馬鹿はいるが、我が国においては、これらの馬鹿に同調する絵に描いたようなアホ国会議員が多すぎる!


これは既に我が国の病理である。戦後とは、こういう民族の病理を生み出すじだいであったのだ。

 
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| 西村眞悟 | 14:07 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |







「特殊作戦群」の諸君    西村眞悟

アルジェリアの中部砂漠地帯、イナメナスにおけるイスラム過激派テロ集団による十人の日本人殺害事件は二年前の一月十六日であった。


その数日後に通常国会が開会され、衆議院本会議で安倍総理の所信表明演説が行われた。
  
私は、安倍総理に強い「報復」の決意表明を期待した。
  

人命尊重も話し合いも人権尊重も、およそ戦後日本で多用される理念の通用しないテロリストの殺戮行為を、有効に「抑止する」のは、目には目を歯には歯をの「報復」しかないからである。


従って、安倍総理が、「日本は貴様らテロリストに報復する」との所信表明を行うことは、確実に海外にいる日本人同胞の命を守る効果がある。


しかし、安倍総理からは「強い憤り」は語られても「報復」の決意表明はなかった。


この度のシリアにおけるイスラム教スンニ派過激組織による二人の日本人殺害に対して、安倍総理は、


「その罪を償わせるために国際社会と連携してまいります」、


「テロと戦う国際社会において、日本としての責任を毅然として果たしてまいります」


と表明したが、日本に「報復攻撃」の正当性があるにもかかわらず、「報復」という言葉の使用を巧妙に避けている。

  
つまり、安倍総理の日本は、「報復」をしないのだ。


片や、パイロットを同じ過激派に無惨に殺されたヨルダンが、直ちに大規模な「報復爆撃」を実施している。


日本とヨルダンと、どちらが「テロと戦う国際社会」の常識に適っているか。即ち「責任を毅然と果たしている」か。答えは明らかであろう。
  

相手のテロリストは、声明を発して、「このナイフはケンジを切り裂くだけでなく、どこであろうとおまえの国民が発見されれば殺戮を続けるだろう」と、おまえ(安倍)を名指しで言い放っている。


これに対して、安倍総理は、日本国民の安全を確保するために、最大のテロ抑止効果を持つ「報復する」という決意表明を以て対抗すべきである。


しかし、再度言う。ヨルダンと対照的に安倍総理は何もしない。この理由を質されれば、官僚の用意した「憲法」によって説明するのだろう。


さて、この政治の世界の裏切りに近い不作為とは別に、私の脳裏には、以前から、我が国の特殊部隊とりわけ習志野にある「特殊作戦群」のことがある。


彼らは、日夜厳しい訓練を続けている。政治の世界の裏切りに近い不作為とは正反対に、彼らは常に宣誓した通り、「危険を顧みず国民の負託に応える」ための厳しい訓練を続けている。


そして、イナメナスの十人殺害事件に遭遇し、ますます彼らの存在と運用が現実味をおびてきた。


そこに、この度の「イスラム國」の残忍なテロである。
  

ここにおいて習志野の特殊作戦群の諸君は、これら日本人同胞が殺戮されて行くテロと、武力の行使はできないと他人事のように決め込んでいる国内政治を同時に観ながら、如何なる思いで、また如何なる覚悟を以て、いざという時のために、日々の訓練を続けているのだろうか。

  
特殊作戦群の諸君らに、私は、心より、まことにありがとう、と言いたい。


我が国家と国民が、国際的テロにさらされている現在、世界最精強の特殊作戦群の存在と、隊員の至高の練度と闘魂に感謝せざるをえない。


特殊作戦群の隊員は、潜入地域の言語に精通し体力のみではなくメンタル面の訓練を受けた精鋭である。訓練内容は公表しない。それは、想像を絶する厳しさである。
  

特殊作戦群が創設(平成十六年三月)されてからしばらくして初代群長の荒谷氏に会いに習志野に行った。


そして、隊員の立ち居振る舞いを観てから荒谷群長に、尋ねた。「北朝鮮に潜入して、拉致被害者を救出してくることができるか」


ドイツ軍とアメリカ軍の特殊訓練過程を抜群の成績で終了してきた荒谷群長が即座に答えた。


「命令があれば行きます。救出して還ってきます。」
  

それは断固とした単純明快な答えだった。即ち、「国家が命じた任務は必ず遂行する」、何人戦死してもやると、群長が即座に言い切ったのだ。


それ以来、特殊作戦群の厳しい訓練を続けている隊員諸君のことが脳裏から離れない。


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| 西村眞悟 | 08:49 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |







駐在武官の情報収集について    西村眞悟

前回、情報は、「盗む」か「買う」か「交換する」かの三つの手段により収集できると書いた。


そのうえで、この度の「イスラム国」の日本人人質に関する情報を、日本国政府は、如何にして集めていたのか。


これが非常に心もとない。


というのも、この度も、二年前のアルジェリアのイナメナスにおけるイスラム過激派の邦人十名の殺害テロ事件の時と同様だったからだ。


何が同様だったのか。この度も、政府はイナメナスの時とそっくり同じ台詞、「ただいま、情報を収集しています」と繰り返していたからである。

  
従って私は、この度もイナメナス同様に、日本政府には全く情報が入っていないと推測していた。
  

しかし同時に、駐在武官の世界からは情報が獲れるのではないか、我が国の防衛駐在官連中は、的確な有意義な情報を掴む可能性がある、と期待した。


そして、防衛駐在官に関して書き込んだのだが、私の操作の誤りで(多分そうなんだろう)、書いたものが総て一瞬のうちに消えてしまった(虚脱感に襲われ再び書き込まなかった)。
  

すると今日、総理がヨルダンに防衛駐在官を新たに置くことを明らかにしたと報道されている。


従って、やはり、防衛駐在官に関して書いておくことにする。


総理が、防衛駐在官をヨルダンに置くことにしたこと、およびその理由は正しい。


総理が言うように、「軍事情報は同じ軍人にしか渡さない慣習がある」からである。従って、ヨルダンに防衛駐在官を置けば、ヨルダンにて有益な軍事情報を得ることができる可能性が高まる。


一九八一年(昭和五十六年)十月六日、エジプトのサダト大統領が、軍事パレードを観閲中に、こともあろうにパレード車両から銃を持って飛び降りた兵士によって銃撃された。
  

大統領は、直ちに現場から運び出され病院施設に収容される。しかし、その容態は発表されなかった。


従って、各国の間では、サダトが生きているのか死亡したのかが重大問題になった。その時、我が国の防衛駐在官が、他国の駐在武官から、「サダトは既に死亡している」との他国が知らない重要情報を得る。


この事例のように、軍人は軍人に重要情報を渡す慣習がある。
  

問題は、「サダト既に死亡」という情報を防衛駐在官からいち早く得た外務省が、この情報を生かし得たのか否かであるが、このことに関しては(案の定)よく分からない。


さて、防衛駐在官であるが、これは自衛隊発足後に始まった制度であり、自衛官が、外務事務官になって外務省と在外公館の指揮下に入って在外公館で勤務して主に軍事防衛関係の情報を収集する制度である。


この時、防衛駐在官は、自衛官の身分を併せ持つが、あくまで外務省の指揮下にあり、得た情報も外務省に伝達しなければならず、外務省経由でなければ防衛省にも情報は届かない。


さらに、防衛駐在官には、一般の外務事務官より厳しい規制が課される。
  

言うまでもなく、また、既にお分かりのように、この防衛駐在官制度は、「戦後特有の制度」であり、自衛官を徹底的に「軍人」として扱わない制度である。


しかし、防衛駐在官も制服(軍服)を着用できるので、外国の駐在武官は防衛駐在官を同じ「軍人仲間」として扱い、情報を渡してくれるという訳だ。


外国の彼らに、軍服を着用している防衛駐在官が、百%外務省の指揮下にあると言えば、日本とは何と奇妙な国かとびっくりするであろう。


そこで、安倍総理が、この防衛駐在官をヨルダンに置くという判断は適切と思うのだが、この際、この「戦後特有の制度」としての百%外務省指揮下の「防衛駐在官」を止めて、いままでの「防衛駐在官」を、これからは各国と同じ「駐在武官」として海外に出してはどうか。
  

ということは、軍事を毛嫌いする外務省による防衛駐在官特有の手かせ足かせを外して、軍事情報の分析能力がないくせに有職故実だけには長けて気位の高い公家集団の外務省への情報一元化を廃するということだ。


その上で我が国の駐在武官が各国の駐在武官と「軍人同士」としての交際を深めていけるようにする。
  

あたかも、日露戦争前にフランスやロシアに出た陸軍の秋山好古や海軍の広瀬武夫のように、現在の我が駐在武官も、明治の先人と同じように、「我、日本を背負えり」という気概を持って海外での仕事に邁進できるようにするのが、我が国益に適うと確信するのである。


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| 西村眞悟 | 21:56 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |







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