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「ノモンハン」77年後の日露   平井修一

菩提寺の山門をくぐったところに大きな石碑がある。表には「陸軍砲兵准尉 勲七等功六級 横山梅吉之墓 陸軍大佐 入江元書」とあり、裏面にはこう刻まれている。


忠剛院殉義梅光居士


君ハ昭和八年一月現役兵トシテ野戦重砲兵第一聯隊ニ入隊 同九年十二月砲兵伍長ニ 同十三年八月砲兵曹長ニ任セラル 同十四年初夏満蒙国境 「ノモンハン」ニ於テ日「ソ」ノ間ニ紛争起ルヤ三島部隊ニ属シテ出動 「ハルハ」河畔ノ戦闘ニ参加シ勇戦奮闘武功赫赫タリ 偶偶同年八月二十七日「イリンギンブルードロ」附近ニ於テ「ソ」軍機械化部隊ト激戦ヲ交ユルニ方リ 君ハ率先陣頭ニ立チテ奮戦中敵弾ヲ被リ壮烈ナル戦死ヲ遂ク


昭和十六年十一月 横山亀吉建立(以上)


亀吉さんは梅吉さんの父上か兄上だったかもしれない。合掌。


そう言えば多摩川畔で料亭を営んでいた「鰻屋」(屋号)のオジサンは横山姓だったから、梅吉さんは小生の遠戚かもしれない。以下ウィキから。


<ノモンハン事件は、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争で、1930年代に大日本帝国とソビエト連邦間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙 国境紛争)のひとつ。


満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となっ た大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。


(平井:梅吉さんが戦死した8月27日前後も日本軍は大いに苦戦していた)


反撃に兵力を抽出したため、日本軍の側面と背後はがら空きになった。北から回り込んだソ連軍左翼は8月23日には日本軍の後背に出て、26日にバルシャガル高地の背後にあった砲兵陣地を蹂躙した。


南で反撃を退けたソ連軍右翼も、27日にノロ高地を支援する日本軍砲兵部隊を全滅させた。(平井:梅吉さんはこの戦闘で倒れたのだろう)


前線の日本軍諸部隊は、背後に敵をうけて大きく包囲され、個々の陣地も寸断されて小さく囲まれた。限界に達した日本軍部隊は、夜の間に各個に包囲を脱して東に退出した。


すなわち26日夜にノロ高地の第8国境守備隊が後退し、ついで戦場外に退出した。29日夜にはバルシャガル高地の第64連隊が脱出した。小松原第23師団長は第64連隊救援のため自ら出撃したが、これも31日朝に後退したのを最後に日本軍は係争地から引き下がり、主要な戦闘は終了した。


この作戦の間、ソ連陸軍は自国主張の国境線の内にとどまったため、退出した日本軍諸部隊はその線の外で再集結した>


ノモンハン事件は双方で数万人の死傷者が出た。被害は、


日本軍:戦死8,440、戦傷8,864、戦車約30輌、航空機約160機
ソ連軍:戦死9,703、戦傷15,952、戦車及び装甲車輌約400輌、航空機約 360機


<1990年代以降、ソ連の崩壊に伴いソ連軍の損害が明らかになると、ソ連軍の損害を少なく隠蔽していたことが明るみになった。またロシア側により発見された史料による「日本側の被害」は日本側が公表している数値よりもはるかに多い人数をあげており、互いに相手に与えた損害を過大に見 積もっている。


日本軍は決して惨敗したのではなく、むしろ兵力、武器、補給の面で圧倒的優位に立っていたソ連軍に対して、ねばり強く勇敢に戦った、勝ってはいなくても「ソ連軍の圧倒的・一方的勝利であったとは断定できない」との見解が学術的には一般となっている。


(歴史家の)秦郁彦も「一般にノモンハン事件は日本軍の惨敗だったと言われるが、ペレストロイカ以後に旧ソ連側から出た新資料によれば、実態は引き分けに近かった」として、


「損害の面では、確かに日本軍のほうが少なかった」「領土に関していえば、一番中心的な地域では、ソ連側の言い分通りに国境線が決まったが、 停戦間際、日本軍はその南側にほぼ同じ広さを確保してしまう。それがいまだに中国とモンゴルの国境問題の種になっている」と指摘している>(ウィキ)


戦争は実に嫌なものだが、戦争でなければ決着できない場合がある。日露は2回の戦争と冷戦で、日本は2勝1敗、ロシアは1勝2敗。お互いに「嫌な奴、恐ろしい奴」と思っており、プーチン・ロシアは「油断ならぬ、食えぬ奴」と多くの日本人は警戒しているから、ロシア人も日本を「島国の小国なのに油断も隙もありゃあしない」と警戒しているだろう。


お互いに仮想敵と警戒しており、ロシアが北方4島を返さない限りは平和条約はあり得ないし、極東の開発に日本が積極的に協力することもあり得ない。西側の経済制裁や原油安でロシア経済が長期衰退をたどるだろう今後は、領土問題解決の機会が訪れるかもしれない。


岡崎研究所の論考「経済低迷で改革不可避のロシア」(ウェッジ1/21)から。


<プーチンの任期は、2018年まであり、2018年に再選されれば、2024年まで大統領です。それを実現するために、プーチンは改革先送り、対外冒険主義を実施していますが、それが裏目に出て、経済困難に伴う国民の不満に直面することが十分にあり得ます。


プーチン政権の2024年までの継続を与件として考えることは間違いにつながりかねません。ロシアでは欧化主義者とスラブ主義者が交代しながら、政権を担ってきた歴史があります。今でも欧米とうまくやっていくことが ロシアにとって良いとの意見は多いです。そろそろ欧化主義者の出番が来ているようにも思われます>


「ノモンハン」から77年。お互いに敵視するのは疲れるし非生産的だ。「北方の小さな島よりも大陸の1.4億人の生活が重要だ、小異を捨てて大同に付け、日本の力を借りよう」という声がロシアから上がってくるかもしれない。ロシアにとってその方がはるかに国益になると思うのだ が・・・(頂門の一針)


<a href="http://www.kajika.net/">杜父魚文庫</a>

| 平井修一 | 02:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







プーチン・ロシアの黄昏   平井修一

北朝鮮が米国大統領を「黒い猿」と言って世界から顰蹙を買っていたが、ロシアの御用メディア、スプートニクニュース4/16は「黒いミニブタの『オバマ』」と題する以下の記事を掲載していた。


<ヴォルゴグラードの動物園では、いうことを聞かない「オバマ」を再教育する試みが行われている。


米国のオバマ大統領にちなんで名づけられたミニブタ家族の一員、黒いミニブタの「オバマ」は、全く落ち着きのないブタに成長し、いたるところで悪態をついている。


他のミニブタたちが「オバマ」の図々しい行動を嫌がったため、「オバマ」は子ヤギや子牛のいる隣の檻に移されたが、そこでも子ヤギや子牛から牛乳の入った瓶を奪ったりして暴れているという。


そのため動物園の園長は、動物園の職員たちがいたずら者の「オバマ」を個別に面倒みなければならない、として嘆いている>(以上)


米大統領をいやしめて溜飲を下げている。貧すれば貪す、だ。よほどオバマに代表される西側諸国が憎いのだろうが、それだけロシアが西側の制裁で切羽詰まってきた、ということを表している。


フォーリンアフェアーズリポート(2015年4月号)のジョセフ・S・ナイ/ハーバード大学教授の論考から。


<ロシアは深刻な衰退途上にあると私はみている。経済をもっぱら資源輸出に依存しているし、人口減少という人口動態上の問題も抱えている。


20年後のロシアの人口は間違いなく減少しているはずだ。いまやロシア人男性の平均寿命は64歳で、この数字は先進国の男性平均寿命よりも10歳も低い。


しかも、政治腐敗が改革の行く手を阻んでおり、必要とされる変化が起きる見込みもほとんどない。


多くの人がプーチンのことを優れた戦略家だと言う。彼が優れた戦術家であることは認めるが、彼の戦略は実際にはロシアを衰退へと向かわせている>(以上)


同誌(2015年3月号)のアレクサンダー・モティル/ラトガース大学教授(政治学)の論考から。


<大統領に就任した当時、エネルギー価格が高騰していたことに乗じて、プーチンは450億ドル(4兆円)を着服したが、それでもロシアの生活レベルを引き上げられるだけの歳入が国庫に残されていた。


ロシア軍は増強され、プーチンの側近たちも甘い汁を吸った。


だがいまや環境は大きく変化した。原油価格は崩壊し、今後上昇へと転じる気配もない。欧米の制裁によるダメージも大きくなり、いまやロシア経済の規模は縮小しつつある。いずれプーチンは予算削減に手をつけざるを得なくなる。


しかし、ウクライナ危機のなかにある以上、軍事費は削れない。政治的支持をつなぎ止めるために社会保障費も削れない。となると、唯一のオプションは、側近たちが国家から資金をかすめ取るのを止めさせることかもしれない。


ここでシロヴィキによるクーデターのシナリオが浮上する。民衆蜂起が起きる可能性も、非ロシア系地域で分離独立運動が起きる危険もある。プーチン体制はいずれ崩壊する>(以上)


ロシアの汚職は中共と首位を競うほどにすさまじい。産経4/18「宇宙開発計画の大幅遅れ懸念、はびこる汚職問題が原因」から。  


<【モスクワ=黒川信雄】ロシアが宇宙開発計画の要と位置付ける新たな基地建設をめぐり、参画企業の不祥事が相次いでいることから、実現の大幅な遅れが懸念されている。新基地は極東振興の目玉とされているが、同国に根深くはびこる汚職問題が暗い影を落としている。


建設を受託した企業が事前に約20億ルーブル(約48億円)を支払われたにもかかわらず破産。資金は横領されたとみられ、給与が未払いとなった従業員が住居の屋根に「助けてくれ」などとプーチン大統領にメッセージを書く騒ぎになった。


別の企業でも工事責任者に対し横領の容疑で捜査が開始された。基地建設の資金約160億ルーブル(約3840億円)が行方不明になっていると伝えられている。
 

ロシアでは昨年開催されたソチ五輪でも大がかりな横領事件が発覚するなど、国家主導の大規模計画をめぐる汚職が絶えない>(以上)


4兆円とか4000億円がパッと消えてしまう。まるで手品のよう。想像を絶する国だ。ロイター3/19「危険水域のロシア経済、無策を露呈」から。


<ロシア経済の見通しは壊滅的とも言われている。ウクライナ情勢で見せる攻撃的な姿勢とは対照的に、国内問題に対するプーチン大統領の行動は見えてこない。金融市場には介入しているが、実体経済に対しては何も措置を講じていない。


ロシアから大規模な景気刺激策は見えてこない。公共投資の削減とそれに伴う公共部門の実質賃金低下は、民間企業に波及効果をもたらしている。小売やサービス部門を中心に、毎日のように人員削減や倒産のニュースが伝えられている。


いつ消費が回復するかは予想がつかない。ロシアの消費者は相当に追い込まれている。ロシアの銀行の推計によれば、財政削減とインフレとルーブル安のせいで、年末までに可処分所得の約半分を食費が占めることになるという。


こうしたことのすべてが、ロシア経済の構造的問題と、それに対すプーチン大統領の無為無策ぶりを物語っている。同大統領は2月、経済顧問らとクドリン前財務相を集め、行政改革や年金制度などについて話し合った。


同会合では、クドリン氏らが国内問題を改めて重視するよう暗に求めたが、具体的な提言作成には至らなかったという。プーチン大統領はまた、政府の腐敗を一掃するのではなく、汚職に対する罰金を軽減する法案に3月10日に署名した>(以上)


「政府の腐敗を一掃する」と誰もいなくなるから、罰金を減らす・・・「まあ、あまり派手にネコババや収賄をするな」ということだろう。なんというデタラメな国なのだろう、前時代の遺物のようだ。「プーチン・ロシアの黄昏」と言う他ない。プーチン、ダ・スヴィダーニャ(さようなら 頂門の一針)。


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| 平井修一 | 21:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







コミンテルンの革命戦略   平井修一
尾崎秀実の真の姿は「完全な共産主義者」であり、その活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」として、逮捕されるまで正体が知られることはなかった。

コミンテルンの活動家となったきっかけは幼少の頃台湾に住んでいたときに感じた差別、大学時代に起こった「大正12年夏の第1次共産党検挙事件」「農民運動者の検挙事件」「大杉栄とその妻子の殺害事件」などから刺激を受け、社会主義を開拓していくことに英雄主義的な使命を感じたからである。

その後、大学院に進学し「唯物論研究会」に参加、共産主義の研究に没頭することになり、完全な共産主義者となった。

(嗚呼、押入れを掃除していたらマルクスの「経済学・哲学草稿」が出てきた。500ページを超える本で、読んだ記憶はほとんどないのに、小生はびっしりと最初から最後まで棒線と書き込みをしている。差し入れの票が付いていたので刑務所で読んでいたのだ。

小生は横浜市立大学の最後のマルクス主義経済学徒だった。20歳前後できちんとした歴史教育を受けていれば、あるいは産経新聞でも読んでいれば中核派にならずに、せめて宮崎正弘先生の助手にでもなれたのにと、慙愧の思いに泣きたくなる。三島の嘆いた「ただの商人」になってしまったのだ。尾崎秀実=当時の岩波ボーイ=マルクスボーイと平井修一が重なる部分は多い)

尾崎は1928年(昭和3年)から上海に渡り、コミンテルンの一員として諜報活動に参加するようになる。最終的な目標はコミンテルンの最終目標である「全世界での共産主義革命の遂行」であり、具体的な活動内容は国内での暗躍および諜報である。

逮捕後の取調べでは、「我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること」と供述している。

さて、勝田吉太郎の「大東亜戦争とコミンテルン」の論考に戻ろう。

尾崎秀実に賛同して意識的に、あるいは無自覚的に共産革命を推進した人々の続きである(カッコ内は平井の追記)。実に人生いろいろだが、基本的には真っ赤である。

■中西功(なかにしつとむ、1910年9月 - 1973年8月。共産主義運動の活動家、中国問題の政治評論家。元日本共産党参議院議員。

1929年、県費生として上海の東亜同文書院に入る。学生運動を通じ、日支闘争同盟・中国共産主義青年同盟などに参加し、反帝国主義の活動を行う。

1932年に帰国し国内活動を行うが、1934年に満鉄調査部に入り大連に赴き、公然活動としては満鉄の調査業務として「支那抗戦力調査委員会」の主要メンバーとなり、中国の抗戦力を高く評価し日本の軍事活動を牽制する報告をまとめた。非公然活動では西里龍夫らとともに、中国共産党と通じ、毛沢東ら中共指導部へ情報を提供し、反戦活動、抗日活動などを援助していた。

1942年、ゾルゲ事件関連で「中共謀報団」として検挙され巣鴨拘置所に収容される。その後、治安維持法違反及び外患罪で起訴され、死刑を求刑される。1945年9月無期懲役の判決を受けるが、占領軍の釈放指令により1945年10月釈放される。

1947年の第1回参議院議員通常選挙に日本共産党から立候補し当選。しかし1950年1月、日本共産党の路線論争の中で党中央と対立し党を除名される。後に復党)

■西園寺公一(さいおんじきんかず、1906年11月 - 1993年4月。政治家。参議院議員、外務省嘱託職員、太平洋問題調査会理事など歴任。祖父は西園寺公望。

オックスフォード大学へ留学しマルクス主義の洗礼を受ける。1930年、同大卒業。東京帝大大学院に在学中、外務省の試験を受けて失敗。「英語は素晴らしくよくできたが、日本式の答案にはまるで不慣れ」だったのが原因だったが、これを聞いた近衛文麿は「折角きてくれるというのに、なんてもったいないことをするんだろう」と外務省の官僚主義を嘆いた。

1936年7月、米国で太平洋問題調査会が開かれることとなり、オックスフォード時代の顔見知りで内閣書記官を務めていた牛場友彦の誘いにより日本代表団の書記として渡米。このとき牛場から引き合わされて公一と同じ船室に入ったのが牛場の第一高等学校時代の同級生、尾崎秀実だった。

1937年に近衛文麿内閣が成立すると、近衛のブレーン「朝飯会」の一員として軍部の台頭に反対し、対英米和平外交を軸に政治活動を展開した。1940年9月には再度外務省嘱託職員となり、対米戦争回避のために努力した。

この時期、松岡洋右外相に同行してヨーロッパを訪問、スターリンやヒトラー、ムッソリーニとも会っている。1941年7月には内閣嘱託になり、近衛首相より、日米交渉について陸海軍の意見調整を図る、という任務を与えられた。

同年10月、昼食会の席上で尾崎秀実の逮捕を知る(ゾルゲ事件)。尾崎秀実とは共に近衛内閣のブレーンとしてさまざまな情報交換を行っていたため、それを「国家機密漏洩」であるとして、ゾルゲ事件に連座して禁錮1年6月、執行猶予2年の判決を受けた。

1957年に中共を訪問、同国の「民間大使」となり、家族を連れて中国へ移住、日中文化交流協会常務理事等として北京にて国交正常化前の日中間の民間外交に先駆的役割を果たした。

1958年には日本共産党に入党するも、のちに日中共産党が不和となった結果、除名された。

文化大革命を礼賛する言動を続けたが、文革が終結しその実情が暴かれ、さらに中国内で文革に対する批判がされた後は言論人としての立場を失った)

■平貞蔵(たいらていぞう、1894年8月 - 1978年5月。思想家。東京帝大在学中は新人会に属し、1922年、社会思想社の結成に加わり「社会思想」を編集。法大教授、満鉄参事などをへて1938年、昭和塾を創設、昭和研究会に参加、大来佐武郎らを育てた。大来は戦後日本を代表する国際派エコノミストであり、外務大臣(第108代)などを務めた。

■笠信太郎(りゅうしんたろう、1900年12月 - 1967年12月)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞論説主幹。

東京商科大卒、1928年4月、マルクス主義研究のメッカといわれた大原社会問題研究所へ就職。ここにはマルクス主義者の大内兵衛がおり、彼が朝日新聞社主筆の緒方竹虎に推薦して、1936年1月、朝日新聞社に入社、同年9月論説委員となる。

朝日新聞記者の尾崎秀実らとともに近衛文麿のブレーン組織、昭和研究会に参加してその中心メンバーの一人となり、近衛を取り巻く朝食会のメンバーともなった)

■和田耕作(わだこうさく、1907年1月 - 2006年7月。政治家、元民社党衆議院議員。京都帝大卒。1934年、南満州鉄道に入社、調査部に勤務する。

1937年、企画院調査官となる。1941年の「企画院事件」では和田博雄、勝間田清一らとともに検挙される。翌1942年応召。

戦後はソ連に5年間抑留され、その経験から反共産主義の立場を取るようになる。1960年に民主社会主義研究会議を創設して事務局長に就任、同時に民主社会党の結成に参画、1967年の衆議院議員選挙に民社党公認で旧東京4区から出馬し初当選。連続当選6回)

■聴涛克巳(きくなみかつみ、1904年1月 - 1965年8月。ジャーナリスト、労働運動家。関西学院大卒後、朝日新聞社に入社。朝日新聞記者として論説委員などを歴任。朝日新聞労働組合委員長(初代)にも就任した。1946年には全日本新聞通信労働組合と全日本産業別労働組合会議(産別会議)でそれぞれ委員長(初代)を兼任した。

1949年の衆議院議員総選挙で日本共産党から出馬し当選するが、翌1950年のレッドパージによる公職追放令を受け失職。中国に渡航して北京機関のメンバーとなり、自由日本放送の業務にも従事した。その後、日本共産党代表としてヨーロッパで活動した。1958年に帰国し、アカハタ編集局長、党幹部会員を歴任した)

■牛場友彦(うしばともひこ、1901年12月 - 1993年1月。東京帝大、オックスフォード大卒。1936年に米国で開催された太平洋問題調査会に、西園寺公一の通訳として参加。近衛文麿の側近時代、内閣総理大臣秘書官を務め、朝飯会を発足させた。尾崎秀実を近衛文麿に紹介し、彼が内閣嘱託となるきっかけをつくった。

戦後、松方三郎や松本重治とともに日本経済復興協会の理事となり、日本輸出入銀行幹事、日本不動産銀行顧問を務めた)

■角田順(つのたじゅん、1910年大坂に生れる。1933年東京帝大卒。日本戦略研究センター常務理事、外交政策研究所(フィラデルフィア)調査顧問などを歴任。著書は『ボールドウィン、チェイムバリンとヒトラー』『満州問題と国防方針』『政治と軍事』、編著・校訂書は『太平洋戦争への道』全8巻、『満州事変』『日中戦争3』『石原莞爾資料』全2巻など)

■堀真琴(ほりまこと、1898年5月 - 1980年1月。東京帝大卒、法政大学教授、政治学者、政治家。1947年、日本社会党から参議院議員に当選。翌年には労働者農民党の結成に参加し、党中央執行委員に就任した。民主主義科学者協会理事、安保破棄中央委員会の事務局長を務めた)

これらの人たちの多くは近衛首相のブレーンとなって「朝飯会」や「昭和研究会」に所属する一方、尾崎とともに当時の有力な月刊誌「改造」や「中央公論」に頻々と登場して「東亜新秩序」をそれぞれの仕方で正当化した。

その多くが戦後においても文筆家、評論家、あるいは政治家となって活動したのである。日本はそういう容共的反日左翼に乗っ取られたのである。(頂門の一針)

杜父魚文庫
| 平井修一 | 11:11 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |







名門ケネディ家の蹉跌   平井修一
ケネディは43歳で大統領になった。選挙で選ばれた大統領としてはケネディが史上最年少である。1961年1月20日に第35代大統領に宣誓就任した。父親はそれを見届けるとこの年、73歳で脳梗塞の発作を起こし、言語と身体が不自由になり第一線を退いた。

ケネディは1963年11月22日に遊説先のテキサス州ダラスをオープンカーでパレード中に狙撃され、暗殺された。父親はさぞ落胆したろう、1969年に亡くなった。

ケネディは1950年代後半から義弟ローフォードから紹介されたマリリン・モンローと不倫関係になり、大統領就任後も不倫を続けていたことが、ローフォードやモンロー家の家政婦などにより証言されている。並行してジュディス・キャンベルとも不倫を重ねた。

モンローは1962年5月19日のケネディの45歳の誕生パーティーに、体の線が露わなドレスで赴き、「ハッピーバースデー」の歌を披露した。この際に、ケネディとモンローの関係を快く思っていなかったジャクリーンは、パーティーにモンローが来ると知ってあえて欠席した。

ジャクリーンの両親は彼女の幼少時に離婚し、母ジャネットはヒュー・D・オーチンクロスと再婚した。オーチンクロスは本邸の他に別邸としてハマースミスファームに広大な屋敷を構えており、穏やかな自然に溢れたその環境をジャクリーンは愛した。

ケネディとジャクリーンの結婚生活は問題だらけだった。ケネディは多くの不倫問題を抱えていたし、ジャクリーンのほうも義弟ロバート・ケネディと不倫した。ジャクリーンはケネディ一族の活動的で幾分粗野な性質を好まなかったというが、不倫には寛容だったのかどうか。

ジャクリーンは米国史上最年少でファーストレディとなり、その生活の全てを詳細に調査され、スポットライトに晒される生活を強いられた。国内においても国際舞台においてもファッションの象徴となったが、ケネディはジャクリーンの浪費癖を嫌っていた。

ケネディ暗殺後、ジャクリーンは悲嘆に暮れ、1年間公の場に姿を現さなかった。その後、彼女はプライバシーを守るため静かな隔離生活を強いられることとなり、自由な生活を失った。ケネディの死から終生逃れることができず、常に暗殺の影におびえるようになった。

義弟ロバート・ケネディが1968年6月6日に暗殺されると、ジャクリーンは「ケネディ一族がターゲットにされるなら、次に狙われるのは自分の子供たちだ」と不安を強め、アメリカを去らなければならないと決心した。

ジャクリーンはギリシャの海運王アリストテレス・オナシスと交際していた。オナシスにはジャクリーンが求めた財力と保護する力があり、ジャクリーンにはオナシスが渇望した社会的地位があった。オナシスはジャクリーンと結婚するため、オペラ歌手マリア・カラスとの関係を清算した。1968年10月20日、ジャクリーンはオナシスと再婚し、シークレットサービスの保護対象から外れた。

オナシスとの結婚でも問題を抱えた。そもそもこの結婚には愛がなかった。夫妻が一緒の時間を過ごすことは滅多になかった。オナシスはジャクリーンの連れ子キャロラインやケネディ・ジュニアと良い関係を持ったが、ジャクリーンのほうはオナシスの連れ子とうまく付き合えなかった。

ジャクリーンは大半の時間を旅行と買い物に費やした。このジャクリーンの浪費癖はケネディを激昂させたものだが、オナシスもジャクリーンと離婚しようと考えるようになった。だが1975年3月15日に69歳で死去し、46歳のジャクリーン、18歳のキャロラインに莫大な遺産を残すことになった。

ジャクリーンは後年、ダイヤモンド商のモーリス・テンペルスマンと穏やかに暮らし、1994年5月19日にニューヨークのアパートで静かに死を迎えた。亡骸は飛行機でワシントンDCに運ばれ、アーリントン国立墓地に眠るケネディの隣に埋葬された。

祖父は金欲、父親は色欲、母親は物欲で、長女のキャロライン・ケネディ(55)はうまく育ったのかどうか。1957年11月27日にニューヨークで生まれ、1960年ケネディが大統領に選出された翌年、ホワイトハウスに入り、大統領の娘として世界的な関心を集めた。

1963年11月に父が暗殺されると母とニューヨークに戻り、彼女の保護のもとでメディアの報道合戦に巻き込まれずに暮らした。名門ラドクリフ大学(1999年にハーバード大学と統合)を卒業後、コロンビア大学ロースクールを卒業して法務博士となり、弁護士資格を得た。

メトロポリタン美術館在職中にエドウィン・シュロスバーグと出会い、1986年に結婚した。結婚後も旧姓のままである。子供は長男のみのようだ。

成人後はケネディ記念図書館の館長やハーバード大学ケネディ・スクールの顧問を務めた。キャロライン自身が直接政治活動をすることは少ないが、2008年の大統領選挙では叔父のエドワード・ケネディ上院議員とともにオバマへの支持を表明した。

駐加大使候補にもたびたび擬せられたが、ニューヨーク州選出のヒラリー・クリントン上院議員がオバマ政権で国務長官に就任することが明らかになると、その後継に意欲をみせた。

CNNなどの共同世論調査では、過半数が「ケネディは上院議員になる資質を備えている」と答え、またケネディがヒラリーの後継となることには52%が肯定的、42%が否定的な反応を示した。しかし2009年1月になって一身上の都合により上院議員の補填指名を受けることを辞退した。

2013年の春頃からジョン・ルースに代わる駐日大使への起用が取り沙汰され、同年7月24日にホワイトハウスが駐日大使への起用を発表した。10月16日の上院本会議で承認され、11月12日に国務省で宣誓式に臨んだ。

同月19日の皇居での信任状捧呈式を経て正式に着任した。信任状捧呈式においては、今上天皇、外務大臣、宮内庁式部官長ら接受する日本側が昼の正礼装で応対したにもかかわらず、ケネディは外交慣例を無視して正礼装を着用せず、七部袖・膝上丈スカートにショルダーバッグという平服で皇居に現れた。

同年12月26日に安倍晋三総理が靖國神社を参拝すると、ケネディ率いる駐日アメリカ大使館は「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している」とのコメントを発表し、安倍総理に対する失望感を露わにした。

2014年1月18日、和歌山県太地町で行われているイルカ追い込み漁に対し、Twitter上で「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」というメッセージを発信し物議を醸した。

なお、シーシェパードの弁護士ロバート・F・ケネディ・ジュニアとは親戚の関係にある。

ニール・ダイアモンドの「スイート・キャロライン」はキャロライン・ケネディのことを歌った曲だという。1969年に発表されたから彼女が12歳の時だ。

さぞ可愛かっただろうが、それから43年、父の死から50年たって駐日大使になったものの、「外交素人であり、北朝鮮や中国と外交的緊張を高める日本の大使としては力不足」「日本への侮辱であり、プロ外交官への打撃である」といった米国内の当初の酷評どおりになりそうな雲行きになってきた。

ニューヨークポスト紙はキャロラインの個人資産は「2億5千万ドル(250億円)から5億ドル(500億円)の間ではないか」という専門家の見方を紹介している。ポスト紙の分析によると、投資や配当などで年間1200万〜3千万ドル(約12億〜29億円)の収入もあるという。米国の金持ちセレブには日本の庶民の気持ちは分からないだろうな。

靖国神社に参拝し、その後、浅草でクジラ料理を賞味してみれば日本人の心が多少は分かるかもしれない。国家、民族にはそれぞれの歴史、文化、伝統がある。人種のサラダボールであるアメリカは多様性を受け入れることで大国になった。信仰や食文化というデリケートなことに不用意に手を突っ込むというは無礼である。

キャロラインが靖国参拝すれば日中韓の緊張は緩む。歴史に残るスマート・キャロラインになれるだろう。それでなければただのスィリー・キャロラインで離日することになる。(頂門の一針)

杜父魚文庫
| 平井修一 | 10:30 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |







JR北海道の”赤い闇”   平井修一
北海道新聞がこう報じている(1月16日)。

<15日に死亡が確認されたJR北海道元社長の坂本真一相談役(73)は社長時代には、札幌―釧路間の振り子特急「スーパーおおぞら」導入など列車の高速化を進めた。脆弱な経営体質の強化に向け、鉄道以外の事業で増収や鉄道需要拡大を狙う関連事業の開発に熱心に取り組み、03年にJRタワーを開業させた。鉄道運輸収入の減少傾向が続く中、副業の売り上げを大きく伸ばし、現在のJRグループの経営基盤を確立した。

さらにJR本体の合理化も推進。社長在任の7年間で社員数を1万1800人から22%減の9200人に削減。車両整備や保線作業などの外注化を加速し、赤字経営体質の脱却を目指した。

ただ、坂本氏の副業重視の路線が、同社の一連のトラブルの遠因になったとの見方も社内の一部に出ていた。社員の安全意識低下や車両の老朽化への対応遅れ、合理化による人材不足などが指摘されている>

坂本氏は2代目社長。2011年には4代目社長の中島尚俊社長が自殺した。中島氏の社員に向けた遺書には、「お客様の安全を最優先にするということを常に考える社員になっていただきたい」と書かれていたという。客を顧みずに自分の利益を最優先する社員が多いのだろう。社長、元社長が相次いで自殺(?)するというのは異常だ。

週刊ダイヤモンドによると――

<不祥事続きのJR北の病巣として指摘されているのが労働組合問題。ある鉄道関係者は「組合のサボタージュの側面は否めないし、最大労組である道労組=北鉄労(JR総連系)の責任を排除することはできないだろう」と指摘する。

JR北の幹部は、「彼らのやる気のなさはひどい。いかに働かないかということにばかり腐心している」と口をそろえる>

JR北には4つの組合がある。組合員の8割強を占める第1組合の北海道旅客鉄道労働組合(略称:JR北鉄労=北鉄労またはJR北海道労組=道労組、JR総連=全日本鉄道労働組合総連合会系)。革マル派がしっかり浸透しており、労使対決・革命路線という、JR北のガンだだ。

第2組合のJR北海道労働組合(略称:JR北労組、JR連合系)は労使協調路線。この他に国鉄労働組合北海道本部(略称:国労道本)、全日本建設交運一般労働組合北海道鉄道本部(建交労道本部)がある。

「組合が違うと飲み会や結婚式にも呼ばないなど対立関係にあることが、日常業務のコミュニケーションにも支障を及ぼしていると指摘されている」(週刊ダイヤモンド)

第2組合のJR北海道労働組合は革マル派に乗っ取られた北鉄労と対立しており、そのサイトにはこうあった。

<「週刊文春」に掲載された記事では、北鉄労が所属するJR総連を巡り、国会での答弁や政府答弁書などで革マル派との関係が指摘されている。また、公安当局によると、「JR総連傘下の北鉄労にも革マル派活動家が相当浸透している」「北鉄労の元委員長は“木暮”というペンネームを持つ革マル派の活動家で、“立花”というペンネームを持っていたJR総連の前委員長も北鉄労の出身である」。

それに対し事実確認を北鉄労に取材を申し込んだが「答える気はない」と拒否をしている。

一方の「週刊新潮」の記事では、JR北海道幹部社員が「(2011年の)石勝線の脱線炎上事故を機に、当時の中島社長は労務政策の見直しを図ろうとしたが、北鉄労が36協定違反を持ち出し、逆に経営陣を責め立てた。その心労が重なって中島社長が入水自殺に追い込まれたというのは衆目の一致するところ」と報道している。

また、アルコール検査の導入に及び北鉄労が検査拒否を続けたことについて「ともかく安全よりも自分たちの勝手な都合が第一」とも証言している>

北鉄労の所属するJR総連=全日本鉄道労働組合総連合会のサイトを見てびっくりした。完全に過激派、革マル派そのものだ。こんな記事が掲載されている。

「JR総連は12月24日、韓国鉄道労組(KRWU)のストライキへの不当な弾圧の中止を求めた『要請書』を韓国大使館へ届けました」

このストは鉄道民営化に反対するもので、金大中はこう嘆いている。

<平均年俸6300万ウォン(約627万円)の労働者が、韓国国民の「足」を人質に取って始めたストは、ついに政治闘争へと変質しつつある。ストとは、腹をすかせた人々、良い待遇を受けられない人々の生存ゲームだ。ところが今のストは、豊かに暮らしている人々、腹いっぱい食える人々の闘争に発展した。

韓国社会はどこもかしこも利己主義だらけで、集団利己主義は機会主義者の政争に悪用されている。今や、現政権下で民営化には着手できなくなった>

また、懲戒解雇をめぐる控訴審で敗けたらこんなことを書いている。

「裁判では金銭和解させようとし懲戒解雇の是非に触れないのは政治弾圧だ。不当判決が安倍内閣の戦争をできる国へ突き進む治安体制強化の動きと無縁でないことを肝に銘じ、戦いを前進させよう」

革命妄想、狂気の沙汰だ。

北鉄労は組合員の脱退を認めていない。対立するJR北労組は「過去にも脱退用紙を受け取らないイヤガラセがあったが、何度繰り返すつもりなのか。怒りを通り越して甚だ幼稚な対応に多くの良識ある北鉄労組合員は呆れかえっていることを北鉄労役員は認識されていないようである。

自分たちの非常識な運動にも気づいていないのだから仕方がないことかもしれない。このようなイヤガラセを繰り返して脱退を止めようとしても手遅れである。すでに北鉄労の瓦解は始まっている」と難じている。

JR北労組の所属する日本鉄道労働組合連合会(JR連合)のサイトでも革マル派を非難している。

<JR総連における「革マル派浸透問題」は歴代の政権が認知するもはや周知の事実であり、JR全体の安全性を揺るがしかねない国鉄改革の残滓とも言える労使関係がJR北海道、JR東日本、JR貨物に残っています>

革マル派は北海道と沖縄のマスコミ、教育界、労組に浸透、寄生し、今や乗っ取り、牛耳っている。戦後民主主義は最悪の反日モンスターを育ててしまった。(頂門の一針)

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| 平井修一 | 09:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







中曽根康弘と石原慎太郎  平井修一
「誰であっても大統領は、決断をしなければならない。誰かに責任を転嫁することはできないのだ。誰も自分の代わりに決断をすることはできない。それが大統領の職務だからだ。責任は私がとる」

米国第33代大統領(在任1945年4月12日〜1953年1月20日)ハリー・S・トルーマンの言葉である。日本への原爆投下を命じ、マッカーサーを通じた日本占領政策に大きな影響を与えた。戦後日本の生みの親である。日本人としては悔しいが、敗戦とはそういうことだ。

国政をあずかる政治家は原爆投下のように周囲の反対を押し切っても国益のために非情な決断をする。冒頭の言葉は敵国の親玉の言葉ではあるが、その職の重さを伝えている。

昭和の初め(1929年7月2日〜1931年4月14日)に首相を務めた浜口雄幸(おさち)は理想の政治家たらんと修養、努力を惜しまなかった。「政治は浜口の唯一の趣味道楽だ」という声もあったが、浜口は「政治が趣味道楽であってたまるものか、およそ政治ほど真剣なものはない、命懸けでやるべきものである」「政治は国民道徳の最高水準たるべし」 との姿勢を守り通した。

政治の重さを承知していた。「一国の政治の方針と運用ならびに政治家の態度と心術とが、一国文化の上に及ぼす所のその影響は実に広大無辺」とも書いている。昭和5年、浜口は東京駅で暴漢に撃たれたが、死を目前にして「男子の本懐だ」と呟いた。もう自分は一身を燃焼させて命を懸けてやってきたのだから、ここで斃れても思い残すことはない、ということだろう。

言うまでもなく政治家は、職業として執政にあたり、国家経営を推進していく指導者である。日本では国会議員、地方議員、地方首長などが政治家の代表で、国権の最高機関である国会には722人の議員がいるが、浜口の言う「国家を率いる政治家こそ最高の道徳が追求される、政治は最高の道徳を行うものでなければならない」と思っている政治家が今はいかほどいるのだろうか。

浜口雄幸を尊敬する中曽根康弘(1918年:大正7年5月27日 - )は95歳になった。評価はいろいろだが、政治家、その最高地位である宰相としての責任、覚悟をもっていた人だろう。彼から見ると今の政治家は物足りないようだ。

「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」(2008年9月3日読売新聞)

4年11か月に及ぶ長期政権を担った中曽根は“総理の資質”についてこう語っている。

「総理大臣になった途端に官僚や新聞記者から冷たい目で見られる。彼らは能力が高く、今までの歴史を熟知し、歴代総理の在り方を研究したうえで現役総理を眺めている。そこに身を晒している。それを克服するだけの人間的魅力と能力がなくては一人前の総理大臣とは言えない。

能力とは先見力、説得力、国際性。そして政治家同士を提携させる、学者との関係を適切にやる、ジャーナリズムとの関係をうまく導き、同じ志を持つ者を集める結合力。それらが非常に重要な要素になっている。多少時間がかかっても克服しなくてはならない。それが宿命だ。

権力者は孤独だ。権力と相対しているとそれが責任感、孤独感に転じていくのだ。責任を果たさなければならないという気持ちが一人でいるときに孤独感を誘引してくる。総理官邸で夜中に考え事をしていると、梟(ふくろう)の鳴き声が聞こえたことがあった。浜口雄幸総理の随感録にも同じことが載っていた。同じように梟の声を聞いて先輩と政治責任を分かち合う気持ちは、総理官邸に住んだ者にしかわからない」(SAPIO 2012年11月号)

中曽根が「最後の国士」として評価した前野徹(元東急エージェンシー社長)は、晩年の著書で石原慎太郎を「ぜひ総理に」と推奨している。こうだ。

「新生日本の国家ビジョンを実現する礎と確かな道筋をつくりイニシアティブをとっていく、この難業を完遂するには従来の為政者を越えた実行力と決断力をもち、強靭なリーダーシップを発揮できる人物でなければ務まらない。この役割を担えるのは石原慎太郎さん以外にはない」(「戦後六十年の大ウソ」)

石原慎太郎は1932年:昭和7年9月30日生まれだから80歳である。保守政治家ということで中曽根康弘とも昵懇だが、宰相を務めた中曽根に比べて言動が軽い印象は否めない。石原は都知事から17年ぶりに国政に復帰し、橋下徹大阪市長とともに「日本維新の会」共同代表を務めているが、石原が橋下という国政経験のない「テレビタレント」と手を組んだのは、小生からみれば「ずいぶん軽いなあ」と思う。人気者の集票力を当てにしたのかもしれない。

橋下は、かつて横山ノックを大阪府知事に選んだ「テレビ白痴症」と同じ人々が支持しているのだろうが、人気は当てにはならない。日本維新の会はこの6月の東京都議会議員選挙では惨敗した。今月7月21日の参議院議員通常選挙でも失敗すれば日本維新の会は消えるかもしれない。

石原は年初に軽い脳梗塞を患った。いくら若々しいと言っても傘寿である。橋下人気にあやかった日本維新の会が空中分解すれば石原の再起も難しいだろう。

佐々淳行(1930年:昭和5年12月11日 - )は第3次中曽根内閣で初代の内閣官房内閣安全保障室長に就任している。2007年:平成19年の東京都知事選挙では石原の要請で選挙対策本部長を務めており、今では石原応援団長のようである。佐々は石原より2歳年長の82歳で、これまた元気な老人だなあと思っていたら、7月から病気療養で休業した。

加齢とともに肉体は弱る。それは誰も避けることはできない。石原も20代のように障子を突き破ることはできまい。「太陽の季節」も終わりになろうとしている。(頂門の一針)

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| 平井修一 | 08:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







血で血を洗うイスラム教徒  平井修一
小生は宗教にはそこそこの敬意を表しているが、「どんなものにでも疑問を持つことが大事だ」という考えだから信仰、信者とはずいぶん隔たっている。どんなに有名な宗教や教義でも、いい教えがあれば参考にはするが、一から十まで信じることはない。

そう、宗教とは一つの人生の指針とは見ても、ひたすら信じることで救われようなどとは全く思っていない。ほとんどの日本人は多神教だから、特定の宗教を奉ずるような人は少数派で、小生のような「宗教に距離を置く」人が多数派ではないか。

まあ一応は檀家だから小生も仏教徒ということになるが、お経もほとんど知らないし、教義にさほどの関心があるわけではない。そういう「普通の日本人」の感覚からすると、イスラム教というのはずいぶん異質の宗教である。

イスラム教は630年頃にモハメット(ムハンマド)が開祖したから1400年近い歴史がある。当時、日本は大和時代で538年に仏教が伝来、遣唐使が始まり、中央集権国家を目指す645年の「大化の改新」を控えていた時期である。

イスラム教はアラーの他にいかなる神も認めない「妥協を知らぬ一神教」で、聖典のコーランは信徒の義務、道徳的規範、戒律、刑法、民法の法律などを含み、信徒の信仰生活のみならず実際生活のあらゆる部分、生まれてから死ぬまで、箸の上げ下げにいたるまで厳しく支配している(甲斐静馬「中近東」)。

教祖が死ねばタガが外れて教団が分裂するのはよくあることで、現在、イスラム教には72の宗派がある。日本の伝統仏教は「十三宗五十六派」と言うから、イスラム教の宗派が特に多いというわけではないだろう。

イスラム教の宗派で代表的なのがスンニ派とシーア派だ。教義の多少の違いはあるが、基本的にはモハメット死去後の後継者争いで、スンニ派は人物本位、シーア派は血統重視で、1400年近くも争っている。日本の南北朝時代のような敵対がずっと続いているのだ。

ロイターがこう報じている。

<宗派対立が再燃するイラク各地で7月2日、市場や商業地区などで爆弾攻撃が発生し、少なくとも45人が死亡した。

最も多い犠牲者が確認されたのは、バグダッド北部のイスラム教シーア派住民が大半を占めるシャアブ地区で、自動車に仕掛けられた爆弾で8人が死亡した。バグダッドの他のシーア派地区でも爆発が発生した。イラクでは1日にもシーア派を狙った攻撃があり、少なくとも27人が死亡した。一方、バグダッド西部のアブグレイブなどでは、スンニ派を標的とした爆発が確認された。

同国では、武装勢力の攻撃による6月の月間死者数は761人に上った>(2013/07/03)

月間だけで761人もの人が殺されている。宗派抗争どころでなく血で血を洗う宗教戦争だ。他者を殺すことも自分が死ぬことも厭わないという狂気の沙汰で、「宗教=心の癒し」と思っている小生には理解不能である。なぜこれほどまでに憎み合うのか。

<今のイラクは、社会を混乱させ内乱状態を激しくさせようとするテロリスト勢力(原理主義のアルカイダや旧サダム・フセイン派など)が、スンニ派とシーア派との間で紛争を起こさせようと煽り立てているので、異常な対立状態になっています。

普通のまともな時代、まともな状態では両派ともなんとなく共存してきたのです。イスラム教徒でも、宗派の違いだけで全面対立したり殺し合ったりなどはしません>(教えて!goo)

ジャーナリストの池上彰はこう書いている。

<アラブ世界はスンニ派の人が多いのですが、イランはシーア派が主流で、イラクの東半分ぐらいもシーア派が主流ですし、サウジアラビアの南の一部やバーレーンにもシーア派が多数います。

なぜかシーア派の人たちは石油資源が豊富なところに大勢います。これをシーア派の人たちは「神様が我々のために石油をくださったのだ」という言い方をしますが、この石油のために、スンニ派とシーア派の対立が生まれやすくなっているのです。

実はイスラム世界のスンニ派とシーア派の対立というのは、宗教的な対立というよりは、「この土地は誰のものか」「この石油は誰のものか」という争いが多いのです。単純な宗教対立とは違います>

スンニ派とシーア派の殺し合いは「自分こそが正当で、他派は邪教、異端だ、殲滅すべし」というイスラム教の非妥協性のためだけではないようだ。宗教と言えども先立つものはカネで、利権も絡んでいるのだろう。

イラクではこの3月にフセイン政権崩壊から10年を迎えたが、06年に激化したシーア派とスンニ派の宗派対立は継続しており、市民が安心して暮らせる状況からはほど遠い。アジアプレスがこう報じている。

<【キルクーク、玉本英子】車の修理工場で働く男性たちに声をかけると人びとが集まってきた。オスマン・モハメッドさん(41)は「家族が爆弾事件に巻き込まれないよう神に祈る毎日。町のあちこちに警察や兵士の姿が見えるのに一向に治安が良くならない。サダム・フセインはいなくなったが、他のサダムがいくつも現れた。アメリカはどこへ行ったのか。誰も私たちを助けてくれない」と訴える。

「いつになったら平和で安心できる街になるのでしょうか。民族がなかよく暮らすことはもうできないのでしょうか・・・」。そう語りかけるオスマンさんに、私は答えることができなかった。逃げ場のない住民は、この恐怖と不安のなかでいまも暮らしている>(2013年4月8日)

キルクークはイラク北部の都市で、イラク最大級の油田のひとつ、キルクーク大油田がある。民族間で産出される原油の分配問題もあり、宗教戦争を煽っているようだ。

スンニ派、シーア派とも現場の過激派は「平和共存」を唱える宗教指導者の言うことは聞かない。ましてや政府の言うことを聞くはずもないし、政府は抑えこむ力もない。大衆を支配する道具だった宗教は暴走して最早制御不能になった。宗教戦争は双方の涙が涸れ疲れ果てるまで数十年は続くだろう。「妥協を知らぬ一神教」に早期の停戦、休戦はあり得ない。(頂門の一針)

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| 平井修一 | 12:33 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







愚かなままの大江健三郎   平井修一
大江健三郎は「九条の会」の事実上のリーダー、看板、広告塔だろう。「九条の会」のメルマガ(2013年5月25日)にはこうある。

<2004年6月、私たちは「九条の会」を発足させ、「日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、『改憲』のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力をいますぐはじめること」をよびかけました。これに応え、全国各地、各分野に7000を超える「九条の会」が結成され、それぞれが創意あふれる運動を展開してきました。

安倍内閣・自民党は小選挙区制という極端に民意をゆがめる選挙制度の力で得た虚構の多数を背景に、改憲に向けて暴走しはじめました。安倍首相はその入り口として憲法96条をとりあげ、現在衆参それぞれの3分の2の賛成とされている憲法改正の発議要件を過半数に緩和するとしています。これが、時々の多数派のつごうで憲法を変えられる状況をつくりだし、立憲主義を破壊するものとなることは明らかです・・・>

1945年の敗戦により日本共産党は占領軍を「解放軍」と言って歓迎し、容共左派の反日屋は米国製の憲法を70年近くもまるで“御本尊”のように崇めてきた。彼らは今の憲法があれば日本の平和が守られるという、ほとんど暗愚の宗教信者のようである。その教祖が大江である。

東京大学広報誌「淡青」(2006年1月)によると、大江が「九条の会」という直接的な政治運動を始めたのは友人であるエドワード・W・サイードの影響が大きい。「知識人は世界に対してはっきりと表現し、主張しなければいけない。それが知識人の条件だ。自分がどういう人達を代弁しているかを意識せよ」とサイードは言う。大江の「日本は憲法を変えずに平和主義でやっていこう」という主張の具体的な活動が「九条の会」である。大江は言う。

<加藤周一さん(「九条の会」呼びかけ人の一人)は「知識人の任務」で、大きな戦争に反対を表明せず、敗北までついて行った無力な日本の知識人を救い直す道はあるかと考える。そして、人民のなかに己を投じ、人民とともに再び立ち上がるほかに道があり得るだろうかと問いかけています。

加藤さんは、八十代になって「九条の会」をつくる中心となり力を注がれた。私も加藤さんと一緒に働けた。加藤さんの文章を読み、直接に話を聞いて心が燃え立ったことを、私は伝えつづけるでしょう>(文芸春秋鼎談2009年12月)

有能な知識人が無知蒙昧な人民をリードするというわけだ。「知識人」という言葉自体がほとんど死語になっている今日、何か時代錯誤的、現実離れ的な感じがする。

「マイスターネット」というサイトに大江の知人である匿名氏がこう回想している。

<当時、私は、放送協会の報道局の政治経済番組部に居て、ラジオやテレビの国会中継番組実施の現場要員の一人でもあった。そのため、当時の若干の政治家の風貌や考え方にも少し通じていたし、瑣末なことまで知っていた。雑談の中で、そのようなことを言った記憶があったが、それを根拠にか、彼ら(大江たち)は私を「体制側」の者だと思っていた形跡がある。

折に触れて彼らが私に対して攻撃的、批判的なことを言っていたのは、その点が彼らの印象に強く残っていたせいかも知れない。そこからが多分、大江の側の飛躍した想像だったと思うのだが、私は彼にとっては、腐りきった反動的な政治で「僕たち青年」を苦しめる「反動的政治家たち」の論理を追い求める、堕落した「反動の走狗」に見えていたのかも知れなかった。彼の言葉から思い出せることはそれだけである。彼がその時に言った、「君とは喧嘩をした仲」の意味は、それしか考えられないのである。

彼は、何か現実の装置に驚いて、眼の前で推移する事柄の実態や本質を冷静に把握出来ていなかった、「純粋だが、同時に無知で無責任な、幸せな青年」のようにも、当時の私には見えたのだった。大江の処世の実像を見ていると、原稿が売れたことと、社会を生きてゆくこととの間にあるものを弁別する姿勢は誰も彼に教えてくれなかったのである>

1960年代、大江は北京を訪ね、「北京にはなんと多くの明るい目があふれていることだったか」と感激し、またアジア・アフリカ人間の会議では「ぼくにもっとも深い印象をあたえたのは朝鮮民主主義人民共和国の代表がおこなった報告であった」とこれまた感激している(「厳粛な綱渡り」)。

独裁国家なら一つの思想、一つの情報しか与えられないのだから国民に迷いはない。匿名氏が指摘するように「眼の前で推移する事柄の実態や本質を冷静に把握出来ていなかった」のである。

今、大江教「九条の会」に洗脳され踊らされている人々の目は明るく澄んでいるのだろう。安全保障の現実に目を向けずに平和のお題目を唱えている大江は78歳になっても相変わらず「純粋だが無知で無責任」なままである。愚かという他ない。(頂門の一針)

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| 平井修一 | 09:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







風呂嫌いの自己弁明   平井修一
昔から風呂嫌いの人は「垢で死んだ奴はいない」と己の風呂嫌いを弁明、正当化する。小生もその一人で、週に一度風呂に入ればいい方。

そんな風呂嫌いの人々が「ほら見てごらん」と言いそうな報道があった。「入浴中の急死1万7千人 65歳以上、全国推計」と産経(2013.2.2)が報じている。

<高齢者が自宅などで入浴中に意識障害を起こしておぼれたり、脳卒中や心筋梗塞を発症したりして急死するとされる「入浴関連死」が、全国で年間約1万7千人に上るとの推計を東京都健康長寿医療センター研究所が2日までにまとめた。

入浴中の急死は冬場に多発。温度差による血圧の急激な変化が原因と指摘されるが、実態はよく分かっていない。熱中症も原因の一つと言われており、厚生労働省は、具体的な発症要因を探り防止策につなげようと実態把握を進める方針だ。

調査は、寒冷地では入浴死のリスクが高まると指摘されることから、東日本を対象にした。

同研究所の高橋龍太郎副所長によると、冷え込んだ脱衣所や浴室では急に体温が奪われ血管が縮んで血圧が上がる。湯船に入った直後も熱さが刺激となって血圧が上がり、その後は血管が広がって急速に下がる。

こうした血圧の急変動が意識障害の引き金になり、おぼれる恐れがあるという。脳卒中などの発症につながるほか「湯に長く漬かることで熱中症もあり得る」とする>

健康長寿医療センターによると、この調査対象は23道都県の447消防本部で、回答率は81%。期間は2011年の1年間で、回答を得た地域において4252人の高齢者が入浴中に死亡(CPA:心肺停止状態)していることが分かった。80歳以上が過半数を占めている。

■年代別CPA人数

65〜計 65〜69 70〜74 75〜79 80〜
計 4252 330 563 921 2438
男 2206 209 325 526 1146
女 2046 121 238 395 1292

これをもとに2011年には全国でおよそ1万7000人が浴室内でCPA状態、ないし死亡していると推計した。CPAの場合、救命率は約1%である。

1万7000人ということは1日当たり46.6人である。人は垢では死なないが、風呂に入れば死のリスクが高まるのだ。親に長生きしてもらいたい人は、特に80歳以上ならあまり風呂を勧めないほうがいいだろう。逆の人は毎日入ってもらうことだが、これは結構な完全犯罪にはなるだろうが、ここで触れる話ではない。

国民生活センターに高齢者の入浴事故例があったので以下紹介する。

Aさん(73歳)は、平成15年3月29日午後8時30分ごろ、自宅の浴槽内で溺水により死亡した。

Aさんは同日午後8時ごろ、浴槽いっぱいに41℃の湯をためて入浴した。そのとき飲酒はしていなかった。いつもは30分くらいで入浴を済ませるAさんが遅かったため、午後8時40分ごろ家族が見に行ったところ、Aさんは浴槽内で顔を湯につけて浮かんでいた。

家族はAさんを引き上げて人工呼吸と心マッサージを試みたが、Aさんは大量の湯を吸引しており、胸や腹部でチャポチャポと水の音がした。死体検案書によると、直接死因は「溺死」、死因の種類は「外因死(溺水)」とされた。

また、解剖所見として、意識消失を来すような脳梗塞、心筋梗塞等の既存疾患等は認められず、心不全、拡張性心筋症の所見もない。Aさんに転倒等をうかがわせる外傷はなく、また、飲酒に由来するエタノールは不検出であった。Aさんは高齢ではあったが日頃からまったく健康であり、高血圧、心臓病、高脂血症等の持病および既往症はなかった・・・

健康であっても高齢者なら誰にでも起きうる事故なのである。

<わが国で入浴事故が多発している背景には、独特の社会・文化的な理由がある。たとえば、欧米では身体の清潔を目的に入浴しているのに対し、わが国ではからだを温める、リラックスして入浴を楽しむ、という意味をもっている。むしろ、このような点を重視している人も少なくない。

ある調査によると、一週間に3回以上浴槽内で入浴する人の割合は、日本では100%であるのに米国(ニューヨーク)では23%にすぎない(おふろの楽園、資生堂新規事業部編著、求龍堂、1994年)。また、日本のサラリーマンに対する調査によると、家庭で最もくつろげるのは「お風呂に入っているとき」との答えが一番多かったという。

一方、米国などでの入浴の特徴は、バスルームは複数あってもシャワータイプが多く、朝、外出前、来客前などにシャワーをするのが一般的で、浴槽内での入浴はほとんどしない人も珍しくない(東京ガス・都市生活研究所、日米お風呂調査)>(健康長寿医療センター)

お風呂もほどほどにしたほうがいいのではないか。(頂門の一針)

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| 平井修一 | 13:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







消えゆく社宅・社員寮  平井修一
わが街の駅前通りを、黒い上下のスーツに黒いバッグを持って毎朝、ぞろぞろと駅へ向かうのは社員寮に暮らす若者だ。真っ黒で、見ようによってはカラスの群のような異様な集団である。街には有名、無名の企業の独身寮がいくつかあるのだ。

ところがここ1、2年ほどで様子が変わってきた。社員寮の若者が目立たなくなってきたのである。社員寮が取り壊されて住宅分譲地になったところもある。どうやら社員寮をなくす企業が増えているようだ。福利厚生費を削っているのだろう。

辞書によると福利厚生とは、会社員が働くことよって得られる給与以外の援助・サービスのことをいう。福利厚生は2つの種類に分かれており、1つは社会保険制度などの「法定福利」、もう1つは企業ごとに独自に設けている「法定外福利」。福利厚生の事例としては、 社宅や社員寮、食堂、住宅融資などがある。

AllAboutがこう解説している。

<日本経済団体連合会の「福利厚生費調査結果(2010年度)」によると、一人1か月あたりの法定外福利費(全産業平均)はこうだ。

項目 金額 前年比%

住宅関連 12,443 −1.7
医療・健康 2,882 −3.6
ライフサポート 5,847 −1.5
慶弔関係 748 +4.9
文化・体育・レク 2,103 +4.1
共済会 245 0
福利厚生費代行 294 −1.3
その他 1,021 −1.5
合計 25,583 −1.5

1人あたり1か月に25,583円の法定外福利厚生費である。この統計では、現金給与総額は541,866円で、現金給与の約4.7%が法定外福利厚生費としてプラスされていることになる。

法定外福利厚生費の中でも一番多いのが住宅関連で12,443円。社宅や寮の費用や賃貸住宅の家賃補助などが該当する。また、マイホーム購入時の資金貸付や利子補助制度などもあり、これらの費用が法定外福利厚生の約半分を占めている。

福利厚生を広い範囲でとらえると、以上の法定外福利のほかに法定福利がある。法定福利は健康保険や介護保険、厚生年金、雇用保険、労災保険などの社会保険の保険料で、企業も保険料を負担している。

これらの法定福利費の平均額は74,493円/月にもなる。現金給与の13.7%に及んでおり、前年度比4.2%増。保険料率が上昇しており、法定福利の負担がさらに増している。社会保険料の負担は労働者だけでなく、会社側にも重くのしかかっている。

この法定福利費は法律で決められたものなので、どこの企業でもそれほど変わらないが、法定外福利は会社によって千差万別だ。企業によってかなりの支給額の差があり、給与額だけではなく、実際にどれくらいの法定外福利厚生が受けられるかをチェックすることが大切になる>

(財)労務行政研究所の「企業が自社で保有する独身寮や社宅に関する調査結果」が厳しい現状を伝えている。

社有の独身寮や社宅については、老朽化や維持管理費が掛かるなどの問題を抱える企業も多い。バブル好況や超求人難で各社が福利厚生施設の充実を図っていた1990年ごろには、社有社宅の保有率は7割にも達していたが、バブル崩壊〜景気低迷を経て統合・廃止の傾向が強まり、今回の調査(2007年)では保有率36.3%とほぼ半減している。

企業が社有社宅入居者から徴収する使用料は民間の賃貸物件に比べて格段に安く、社員の受ける恩恵は大きい。

今回の調査結果では、2000年以降、保有していた企業のうち、社有独身寮で49.5%、社有社宅で58.5%とかなりの割合で統合・廃止された。さらに、現在、社有社宅を保有している企業のうちの3割が今後減少・廃止する意向を示しており、社有社宅はますます減少の一途をたどるものとみられる。

以下はリクナビのレポートから。

<最近、福利厚生の大幅な見直しを進めている精密機械大手の元従業員Aさんの声。

「本社採用で地方勤務の従業員には家賃補助の名目で手当が支払われていました。私の場合は地方勤務時にワンルーム賃料7万円のマンションが借り上げで、うち会社負担が6万円もあったので、住宅費はかなり楽をしていました。

東京本社に戻ったときはワンルームの独身寮に入りましたが、このときも自己負担が2万円ですみました。しかし、この家賃補助が最近全廃されたんです。保養所もなくなったと聞きました。私はその前に会社を辞めましたけど、残った同僚たちはヒーヒー言っています」>

法定外福利厚生費は“給与外給与”だが、これが削られることはサラリーマンにとっては打撃だ。これからも企業は乾いた雑巾を絞るようにコスト削減を強めるだろう。半世紀前に「サラリーマンは気楽な稼業」などと浮かれていたものだが、今や「サラリーマンは過酷な稼業」になってしまった。サラリーマン受難時代である。(頂門の一針)
 
杜父魚文庫
| 平井修一 | 16:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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